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短編集・読み切り



「もしもーし。聞いてる?

 聞こえてるんだろ?」


 階段を上りかけた僕の顔の前にズイッと

距離無しで顔を近づけてくる。

 重力とか体の移動に伴う関節の動きを無

視した場所に彼の顔が平行移動してくる。

 やはり彼は人間が生まれながらにして縛

られている自然の摂理という名の制約に縛

られない存在らしい。

 と、そんなことはどうでもいい。

 というか見えてないんだ、何も。

 彼なんていない。

 今ここに僕以外は何もいない。


「びろーん」


 彼は目尻に人差し指をあて、口の端に中

指を突っ込んで左右に引っ張って表情を崩

す。

 つまり“変顔”をしているのだが、とて

もじゃないけれどこの状況で笑う気にはな

れない。

 そもそも見えていないんだった。

 無視しよう、無視。

 茶髪の彼の顔を避けるように動いて階段

を上っていく。

 僕の部屋は階段を上って廊下の一番奥の

角部屋だ。

 外廊下の蛍光灯には蛾か何かがたかって

いるが、そもそも古くなっているのか時折

点滅を繰り返している。

 完全に切れてしまえば管理人に報告もで

きるのだが、そもそも外階段の照明を放置

していることから考えてあまり期待はでき

ない。

 時々消えそうになる外廊下を歩いて部屋へ

と向かう。

 背後で何かが話しかけ…いや、何か喚いて

いるけどナニモキコエナイ。

 きっとここ数日うっかりネットサーフィン

をしすぎて睡眠時間を削ってしまったから、

僕は自分が思っているよりずっと疲れている

んだ。

 そうとしか思えない。

 きっとそうに違いない。

 そんなに部屋数があるわけでもないので、

そうこうしている間に突き当たりの僕の部屋

に辿りついてしまう。

 それにしても、しつこい。

 まだ背中の向こうで人ならざる彼が何か騒

いでいる。

 夢とはこういうものだったか?

 いや、これはもう悪夢のうちに入るだろう

か。

 が、ドアノブを掴んだところでハタと思い

出す。

 そうだった。

 明日はシフトを代わってくれと頼まれてい

たんだった。

 なんでもバイト先の先輩が遠方の夏祭りに

恋人と行くらしい。

 ちくしょう、リア充め。

 リア充なんて一人残らず爆発してしまえ。

 なんで夢の中でまでこんなイラつくことを

思い出さないといけないんだ。

 それとも、それでイライラしてたからこん

な悪夢を見ているのだろうか。

 恨みます、先輩。


「なーってば!

 えぃちゃん、聞こえてんだろ!?」


 “えぃちゃん”とは、誰のことだ…?

 こんな僕の理解の域を超えている現象は

ほぼ確実に夢なのだけど、もしかして違う

誰かと間違えられてこんな訳のわからない

存在に付きまとわれているのかと思ったら

急に腹が立ってきた。


「人違いです。お引き取り下さい」

「やっぱ見えてんじゃん!

 えぃちゃん、酷い!!」


 もう相手が茶髪だろうが、シルバーのピ

アスやネックレスをジャラジャラつけてい

ようが、つまり見た目が不良っぽくても怖

くなかった。

 こんなのは夢だ。

 さっさと目覚めてしまえば、現実の世界

まで夢は追いかけてはこられない。

 それよりもずっと付きまとわれて喚かれ

る方が不愉快だ。

 そういう気持ちを込めて睨みつけるが、

茶髪男子は怒って…というよりは拗ねて抗

議でもするように口を尖らせている。

 そういう表情は、その体格に反してぐっ

と印象を幼く見せた。


「だから、僕は」


 違う、と訂正する僕の声を遮るように頬

を膨らませた彼は僕の部屋の表札を指差し

た。

 表札には【峰永】の文字。

 紛れもなく僕の苗字だ。


「……まさかとは思うけど、“峰”が読め

 ないの?」

「……えぃちゃんはえぃちゃんだし!

 俺が決めた!

 じゃ、お邪魔しまーす!」

「こ、コラッ!

 勝手に人の家に入るなっ!!」


 僕の問いかけにふと明後日のほうを気ま

ずそうに見ていたものの、驚くほどの速さ

で開き直ったらしい彼は涼しい顔でドアの

向こうへと消えた。

 そうなると慌てるのは僕の方で、プライ

ベートスペースに無断で入ってくるなとポ

ケットから鍵を出す暇も惜しんで彼を追い

かけた。





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