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短編集・読み切り




 最後の患者の診察を終えた診察室は、昼

の休憩時間に入って先程までの喧噪が嘘の

ように静まり返っている。

 昼休みだからと言っても院内に人はいる

のだが、看護師たちの出払ったこの診察室

は人のいる場所から切り離されたように静

かだ。

 それも休憩時間が終わるまでの僅かな間

だけなのだが。

 デスクの端には昼食用にと買ってきたサ

ンドイッチが置かれているが手つかずのま

まだ。

 それを食べるよりも大事なことを先にし

てしまわなければならないから。

 しかし紹介状と書かれた書類の上を滑っ

ていたペンが、その大半を書き終えたとこ

ろで止まる。

 紹介する患者の氏名、“芹澤”まで書い

たところでペンが紙の上に縫い付けられて

しまったように動かない。

 その先を知らないわけではない。

 自分が担当している患者の名前くらい分

かっている。

 “芹澤 一也”

 その名は、ここ数か月間ずっと頭から離

れたことはない。

 仕事の合間、自宅で寛いでいる時も、ふ

とした拍子に彼の顔を、声を思い出す。

 すると胸の奥に抑えていた後悔や罪悪感

が入り混じった苦い感情が溢れてきて居た

たまれなくなる。

 しかし幾度考えても過去はもう変えるこ

とができず、いっそ自分のほうが消えてし

まったほうが楽ではないかと逃避じみた妄

想にかられる。

 そうして明日こそは紹介状を書こうと決

意して、そこでその考え事に構うのは終わ

りだと意識を強制的に引き離すのだ。

 そうしなければ深みに嵌って戻れなくな

る。

 後悔や罪悪感が溢れるその奥に隠れた小

さな感情の片鱗から目を逸らせなくなって

しまう。

 しかし彼の紹介状を書こうと思って、書

いたのはこれが初めてではない。

 病名、主な症状、投薬内容はもちろん、

彼の住所をカルテを見ずに書けるようにな

るくらいは何枚も書いてきた。

 いや、書こうとしてきた。

 だが書けないのだ。

 彼の名前を書こうとすると、ペンが止ま

ってしまう。

 ケースに入れられたノーラベルのDVD

ディスクを目の前で揺らす彼の意地の悪い

笑みがどうしても脳裏をチラつく。


『たとえばさ、コレをうっかりこの病院の

 どこかに置き忘れて帰っちゃったらどう

 なると思う?』


 ノーラベルのDVDディスクには目隠し

をされて彼に犯された時の録画データが焼

かれている。

 彼は自分で宣言した通りに、診察の時に

あの時の録画データを持ってきた。

 勿論、それを私が受け取るなんていう選

択肢は最初から無かったが。

 それを断った時の彼の言葉だ。


『誰が拾うかな?

 看護師?他の医師?

 あ、院長センセだったら面白いよね。

 院長センセって鈴鳴センセの叔父さんな

 んデショ?

 …だからさ、変なことは考えない方がい

 いよ?

 センセが大人しくしていてくれたら、俺

 も変な気にはならないと思うし』


 彼の低い声色が背筋を撫でる。

 どちらが主導権を握っているのか、それ

は誰が見ても明らかだろう。

 そして不本意だが私はそれを黙って聞く

より他ないのだ。


「はぁ…」


 紙の上でどうしても動かないペンを握り

続けることをやめ、書きかけの紹介状をシ

ュレッダーにかける為に席を立った。





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