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短編集・読み切り



【契約を。

 それさえ済めば、そのペンはお前のもの

 だ】



 黒い霧は宙に浮いた人型を模った。

 黒いフードを深く被っていて顔こそまと

もに見えないが、薄い唇から覗く白い牙が

毒蛇の牙のように思えた。

 あの鋭い牙にはきっと毒が仕込まれてい

るのだ。

 獲物の肉を貫き、身動きを封じる為の毒

が。


【そのペンは文字や絵を体に書き込まれた

 者を、そしてそれを見た者を従わせる。

 効果は書き込んでから24時間。

 例外として、お前の精液が体にかかれば

 その効果はたちまちに消え失せる。

 同じものを重ねて書き込めば、書き込ん

 だ回数分だけ効力は持続するし、効力を

 取り消したいなら重ね書きした回数だけ

 精液をかけてやればいい】


 影は笑いながらとんでもないことを言う。

 体に落書きするだけでもハードルが高い

のに、24時間以内に効力を失わせたけれ

ば精液をかけろという。


【今は空だが、時間が経てば少しずつイン

 クが溜まっていく。

 お前はそれを自由に使えばいい。

 …ただし、そのペンのインクが限界まで

 溜まったら、その時はお前の命を喰らい

 に来る】


 細められた紅い目が高取を見下ろす。

 血より赤いなんて、まるで皮肉のようだ。

 けれど目の前の影が悪魔か何かの類であ

るのならば、むしろ“らしい”と言えるか

もしれない。

 歯列をなぞる長い舌を見上げながら、高

取は手の中のペンを痛い位に強く握りしめ

た。

 命という単語にホームに舞った男の背中

を思い出す。

 他人を思いのままに出来るアイテムと交

換に引き渡すのは自分自身の命。

 ある意味、気持ちいいくらい解りやすい

ともいえる。

 目の前の影と契約を交わして、少女の中

のあの夜の記憶を封じ続ける事が贖罪にな

るのなら、それでもいい。

 ここで何もせず、罪悪感に圧し潰されそ

うになりながら生活をし、そしていつか無

責任にあの夜と今日の事を忘れ去ってしま

うよりは、ずっといい。


 わかった。

 その時は欠片も残さず喰らえばいい。


【契約成立だ】


 紅い目と唇が不気味な笑みを形作る。

 人の形をしていた黒い霧はその直後に何

もなかったように霧散して、高取はペンを

ズボンのポケットに突っ込みながら並んで

いた列に戻ったのだった。




 勉強机の上にペンを転がしたまま、高取

はベッドに移動して体を横たえる。

 黒い影と契約を交わした時の事を思い返

しながら、それがもうずっと昔のことのよ

うにも感じる。

 …結論から言えば、結局あの少女は救う

ことができなかった。

 盆休みが明け、母と共に母方の実家から

戻ってきても高取はあの少女に関する情報

を何一つ持っていなかったからだ。

 学校と学年が分かっていたところで学校

は9月まで夏休みに入っていたし、所属し

ている部活動や通っている塾はおろか名前

すらわからない状況では動きようがなかっ

たのだ。

 9月になってからあのペンを駆使して少

女を探した。

 最初こそ3年の教室まで足を運んでいた

が、どうしても見つけることができなかっ

た。

 前年の学校行事の集合写真から探せばい

いと思いついて、ペンの力を使って教師か

ら少女の情報を聞き出した。

 放課後に少女の自宅に出向き、部活の後

輩を名乗って少女の見舞いと称して合わせ

てもらおうとした。

 言葉を濁して渋る少女の母親にもペンを

使った。

 事件のことで塞ぎこんでいるのだとして

も、ペンさえあれば解決できると思ってい

た。

 だが少女の母親から返された言葉に、俺

は立ち尽くすことしか出来なかった。

 少女はあの夜以来、家に帰っていなかっ

た。

 心配した両親は捜索願を出したが行方は

知れず、高取が母親と母方の実家に里帰り

した翌朝に古びた農具小屋で首を吊った姿

で発見されたらしい。

 早朝から畑仕事をしようとした老人によ

って発見され、警察は捜索願が出されてい

たことから制服姿だった少女の身元を特定

しやすかっただろう。

 警察は遺体の状況、失踪以後SNSに

残された自殺を仄めかすメッセージ、現

場検証の結果から事件性は薄いと判断し

自殺として処理したという。

 少女の遺体は司法解剖が終わって返さ

れてから親族だけで葬式と納骨を済ませ

たと母親は泣き崩れた。

 高取が動き出そうとした時にはもうとう

に手遅れで、少女の体は灰になっていた。

 鼓膜の奥にこびりついた“事件を苦にし

て自殺するかもしれない”という影の言葉

が責め立てるように何度も反響する。

 もっと早く少女のことを調べていたら。

 もっと以前に自分自身の罪と向き合えて

いたなら。

 こんな結果にはならなかったかもしれな

い。

 高取の罪はもう一生許されることはない。

 許されない罪を死ぬまで背負っていくし

かない。

 贖罪という目的を失うと同時に重い罪を

背負って、高取の中で何かが壊れた。

自分が少女の為に努力していたと思って

いたことは全て無意味で偽善的な自己満足

だったと結論付けた。

 だったら下手な善人面しないで、とこと

こん悪党になればいい。

 嗚咽を漏らす少女の母親をその場に残し

て、高取はフラつく足取りでその家から出

ていった。

 加害者の一人である高取に唯一許された

のは、少女の母親には何も告げず丸ごと全

てを背負って立ち去る事だけだったのだ。





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あきゅろす。
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