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短編集・読み切り
§


「生憎とそういうものは間に合ってます。

 弟にはまだ早すぎますから余計な手出し

 は不要です」

「わっ」


 掴まれた肩が痛いと訴えようとした俺の

左の二の腕を掴んだ兄貴はそのまま俺の腕

を強引に引き上げようとする。

 しかし俺を立ち上がらせようとしている

であろう兄貴の腕についていけずにバラン

スを崩してしまい兄貴の方へと倒れ込んで

しまう。


「ご、ごめん…」

「しっかりしてください。

 もう帰りますよ」


 兄貴は辛うじてバランスを崩した俺を支

えてくれて、俺の頭上から俺を叱咤する。

 俺は苦笑いで謝り、けれど右手で畳に手

をつき立ち上がろうとしても脚どころか手

にもあまり力が入らない。


「そんな…旦那様がお許しになったのです

 か?

 今夜一晩、お客様をおもてなしするよう

 にとよくよく言い含められておりますけ

 れど」


 一晩?

 傘一本貸しただけで?


 しかし俺よりも兄貴の口が開く方が早か

った。


「一晩なんてとんでもない。

 僕が脱衣所で脱いだ服と傘だけ返して頂

 ければ十分です。

 帰りが遅くなれば家族も心配しますから、

 これでお暇します」


 兄貴は顔に隙の無い笑みを浮かべている

けれど、何となく雰囲気で怒っているのが

伝わってくる。

 脱衣所で脱いだ服というのはここに来る

までに濡れてしまったあの服だろう。

 もしかしたら好意で洗濯と乾燥する為に

持っていってしまったのかもしれない。

 着替えは用意してくれていたけれど、そ

の濡れた服も返してもらわなければ帰れな

い…兄貴の心中はもしかしたらそんな感じ

かもしれない。


「いえいえ、それでは私が旦那様に叱られ

 てしまいます。

 どうぞお料理を食べてお酒を楽しんでい

 ってください」

「ご心配いただかなくても夕食は家で母が

 用意していますので。

 ご主人には宜しくお伝えください」


 どちらも一歩も引かない応酬が続く。

 俺はそれを横で聴きながら立ち上がろう

としてみるけれど、全身がだるく手足は磁

石になってしまったみたいに畳の上から持

ち上がらない。


 おかしい。

 そこまで疲れることもしなかったし、逆

にこんな時間から眠くなるほど睡眠が足り

ていないわけでもない。

 それなのに立ち上がれないなんて。

 どうしちゃったんだろう、俺の体。


「ごめん、立てない…」


 女の人が折れないせいで笑顔を顔に貼り

つけたままイライラしてきたらしい兄貴は

対応が乱雑になってきていて、俺がこっそ

り小声で詫びたら即座に睨まれた。


「駆は帰りたくないんですか

 ここで一晩、お世話になりたいとでも?」

「そんなんじゃ…!」

「では残念ですが、駆君だけでも泊まって

 いってください。

 先程から眠くて辛そうでしたし、このま

 ま帰るより横になったほうがいいいでし

 ょう。

 その方が旦那様も喜びます」


 兄貴の棘付きの嫌味に乗っかる様に女の

人は俺の言葉に声を被せてきて、兄貴に左

腕を掴まれたままの俺の右肩に手をのせて

“ね?”と耳元に吐息をかけてくる。

 ちょっとだけ艶を覗かせたその息遣いが

よく身に覚えのあるもののようで、俺は条

件反射のようにここで初めて一つの疑念を

胸に抱く。


 まさか…さっきのお茶…?


 

[*前]

あきゅろす。
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