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短編集・読み切り



「……」


 高取は自室の勉強机の上に行儀悪く脚を

投げ出した姿勢のまま長く沈黙していた。

 左腕は投げ出されたままだというのに、

不安定なはずの姿勢はギリギリでありなが

らブレることなくその姿勢を保ち続けてい

る。

 ドアの向こうの日常の音は遠く、ただ静

かに繰り返される高取の息遣いだけが鼓膜

に届く。

 高取は右手に握った黒いマジックペンを

睨むように凝視し続けている。

 市販のものと違い透明な容器が使用され

いるこのペンは中身のインクの残量が一目

で分かる仕様になっている。

 とはいえ万年筆や一部のボールペンのよ

うにカートリッジやインク芯を交換すれば

使い続けられるという類のペンでもない。

 これは特殊な…特異なペンなのだ。


「さっき使い切ったばっかだろ…」


 忌々しく吐き捨てながら手の中のペンを揺

らす。

 透明な容器の中で黒いインクが揺れ水面に

小さな波紋を作る。

 そのインク量はさしたる量ではないが、こ

のペンはその構造から人の手でインクを注ぎ

足すことは出来ない仕様になっている。

 それでもこのマジックペンのインクは一滴、

また一滴と溜まり続ける。

 それこそ高取が“影”と交わした契約。


「使う度に足されるインク量が増えるのか?

 それとも契約からの時間経過、か…」


 独り言に答える声はなく、沈黙が戻る。

 高取の脳裏に蘇るのは、ただ一度だけ言

葉を交わした“影”が去り際に浮かべた薄

ら笑い。


「チッ…」


 高取は忌々しい笑みを思い出して舌打ち

する。

 深いため息をつきながら机の上へとペン

を放り投げ瞼を下ろした。





 高取がこの不思議なペンと最初に関わっ

たのは1年以上も前。

 当時、中学3年生までずっと通っていた

空手道場に通うのをやめてしまったことで

高取は時間と体力とをもて余していた。

 道場通いをやめたのは、同じ道場に通っ

ていた上級生との諍いの末に怪我をさせて

しまったことが原因だった。

 その上級生らには日頃から“目付きが悪

い”、“礼儀がなっていない”と難癖をつけ

られていたが、空手の力量では決してひけ

をとらなかったこともあり高取は相手にし

ていなかった。

 だが相手をされなかったことに上級生は

腹をたてて言動がエスカレートしていき、

ついに高取は腹に据えかねて拳を振り上げ

てしまった。

 元より手の早い高取の言い分と影で下級

生を虐めて鬱憤を晴らしていた上級生の言

い分とでは大人の目には後者が正しく映っ

た…それだけの話だった。

 悪いことは重なるもので、ある日なんの

前触れもなく父親の愛人を名乗る女が家へ

と押しかけてきた。

 毎日のように残業で帰りが午前様になっ

ていた父親は、ただ単に不倫相手の家に入

り浸っていただけだったようだ。

 それを知った日から母親はヒステリーを

起こして夫婦喧嘩が絶えなくなり、それか

ら逃げるようにますます父親は家に帰らな

くなった。

 授業が終わっても家に帰ればちょっとし

たことでヒステリーを起こす母親と顔を合

わせなければならず、高取の足もまた家か

ら遠のいていったのは当然の成り行きだっ

た。

 程よく道場で消費されていた体力と暇は

反抗期真っ只中な高取の内で渦巻き、大人

不信も相まって荒れに荒れた。

 喫煙や飲酒レベルの事は一通りやったし、

欠席日数や内申点がガタガタでも合格でき

るバカ高校に入学してからは深夜まで夜の

街をブラついて補導された回数も少なくな

い。

 あの夜もそうして夜の街を目的もなくブ

ラブラと歩いていた。

 見回りの目を避け人通りの少ない脇道を

ゆったりと歩いていた高取の耳に甲高い悲

鳴が届いた。

 酔っ払い同士がふざけ合って大声をあげ

ることもある街だが、それとは違った類の

声だというのはすぐに気づいた。

 それが誰かに助けを求める声だとしても

関わるつもりは毛頭なかったが、暇を持て

余していた高取は興味を引かれてビルの間

の暗がりを覗き込んだ。

 闇の向こう、頭頂部が寂しくなっている

背広姿の男の向こうに茶髪のショートカッ

トの若い女が見えた。

 叫び声は突き当たりに追い詰められてい

る女のものだと思われた。

 が、その女がやたらと短いスカート姿で

水商売関係者のような服装であることが遠

目に分かって高取は僅かばかりの興味さえ

失った。

 夜の街でそういう店でのいざこざなど日

常茶飯事だ。

 あの手の店はカタギでない人間の出入り

がある店が殆どで、下手に首を突っ込めば

厄介な事になる。

 女の営業トークを真に受けた男が自己破

産するほど金を貢ぎ、傷害事件を起こすな

んてよくある話だ。

 “そこそこの見た目の若い女がハゲたオッ

サンに本気になるわけねーだろ、現実見ろ

よ”

 高取は内心笑いながら背を向け、女が抵

抗する気配を聞き流しながらその場を立ち

去…ろうとした。


「あっ、う、嘘ぉ〜っ」


 やけに甘ったるい女の声が響いた。

 新手の営業手腕か?と高取も思わず立ち

止まった。

 まだ夜の店を利用できる年齢では勿論な

かったが、肉体的には健康な10代の男と

しては色事に興味がないわけではない。

 一度は返した踵をまた反転させて見た光

景に高取は目を瞬かせた。

 何やらボソボソと喋るオッサンに押さえ

つけられたまま、女は乱れた服から胸を露

出させ男の手で捲り上げられたスカートか

ら太腿が覗いている。

 街灯の影になってよく見えないが、男の

手が女の下半身に伸び、男の手の動きに呼

応するかの様に女の体が波打った。

 もう女自身に抵抗する様子はなく、吐き

出す吐息が忙しなくなっていく。

 その様子は傍目から見ても男女のそれで

あり、高取の表情は口の端が僅かに持ち上

がっただけだった。


 あの時はまだ暗がりのせいで男の手元は

見えなかった。

 だが全てを知った後から考えれば、あの

ハゲオヤジはこの時もあの魔法のペンを使

っていたのだろうというのは容易に想像で

きる。

 最初に聞こえた悲鳴は駆け引きのそれで

はなく、本物であっただろう…と。





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