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短編集・読み切り
§


「そんなに緊張せず、肩の力を抜いて下さ

 いよ。

 旦那はあっしの恩人ですからね。

 今洗濯させている服が乾くまで、ごゆる

 りと寛いでいただきたい」


 男の細い目が人懐っこく笑う。

 けれど傘一本貸しただけでこんなに豪華

な食事や給仕の女性をつけられると尻込み

してしまう。

 身なりや口調からその人の身分は臆測で

きないんだなと身に染みる。


「こんなにしてもらわなくても…」


 お茶やジュースの一本くらいならいいか

もしれないが、ここまでされると逆に気後

れしてしまう。


「いえいえ。

 恩は十倍で返せが家訓でしてね。

 このくらいはさせてもらわなきゃ、あっ

 しがご先祖様に叱られてしまいます」


 十倍…。

 すごい家訓だなぁと思う一方で、お金持

ちの人達はそういうのを大切にしているの

かもしれないとも思う。

 まぁ真似しようと思って出来るものでも

ないかもしれないけれど。


「さ、お茶どうぞ。

 お茶なら飲んでくれるでしょ?」

「あ、どうも」


 給仕役の女性から受け取った湯呑みには

紅茶とか麦茶に近い茶色系のお茶が注がれ

ていて、鼻先を近づけると強い花の香りが

した。


「これって何ていうお茶なんですか?」

「花茶なんです。

 遠い昔から伝わる伝統のお茶なんです。

 これはその中でも秘伝のお茶でなんで、

 飲んだらきっと疲れがとれますよ」


 こんな香りのお茶があるのか、とちょっ

とワクワクしながら湯呑みに口をつける。

 お茶をこだわりをもって飲んだことはな

かったけれど、香りだけでもリラックス効

果があるような気がしてくる。

 一口飲んでみると香っているほど花の味

はしないもののお茶の味に深みがあり、鼻

を抜けていく花の香りはずっと強かった。

 鼻腔で花の香りを確かめながら、喉を通

る温かい感触の後で無意識に深く息を吐き

出してしまう。

 お茶を美味しいと思う時、日本人で良か

ったと思う。

 …ちょっと大袈裟かもしれないけど。

 しかしそんな俺の人知れぬ気持ちに応え

るように襖の向こうからカコーンと小気味

のいい音が響く。

 もしかしたら襖の向こうは庭先で、添水

が音をたてたのかもしれない。

 雨も降っていたしじっくりとは見なかっ

たけれど、玄関の引き戸をくぐる前にチラ

っと見えた庭先は立派な門構えに恥じない

手入れの行き届いた日本庭園のようだった。

 こんな天気でなければちょっと見せても

らいたかったけれど、仕方ない。


「美味しいです…」

「それは良かった。

 体が温まりますからね、遠慮せずどんど

 ん召し上がって下さい」

「ありがとうございます」


 ニコニコと元から細い目を更に細めると

痩せた顔の顎のラインも手伝って主である

男の顔立ちは人懐っこい狐面のようにも見

える。

 たまにいるよなぁと思いつつ、俺はこっ

そりと頭の中で中学で一緒になったクラス

メイトの顔を思い出した。

 お茶を啜り体を温めながら、兄貴はどう

しているかなと考えを巡らせる。

 車道の脇にできた水溜まりの水をもろに

被ってしまっていたし風邪をひいてしまっ

ていないかが心配だ。

 そういえば濡れた服が乾くまでここにい

てくれと主人は言っていたけど、兄貴は着

替えを持ってきてはいない。

 何か着るものを貸してもらえたらいいけ

ど、あの長身だから着れるサイズのものが

あればいいけど…と兄貴が現れるのを待っ

た。

 そこに和服姿の女性が入ってきて、何や

ら男に耳打ちする。

 男は軽く頷いた後で立ち上がって俺に向

かって口を開いた。


「すいませんが、あっしは所用でちょっく

 ら席をはずさせて頂きやす。

 旦那は花茶と茶請けを楽しんでいていて

 下さい」

「あ、はい…」


 何かあったのだろうかとは思ったけれど、

ほぼ初対面の間柄で突っ込んだ話もどうか

と思って黙って見送った。


「ささ、もう一杯お茶をどうぞ」

「あ、はい。

 いただきます…」


 急須を手にニッコリ笑いかけられて俺が

思わず頷くと、握ったままの湯飲みにとく

とくと花茶が注ぎ足されていく。

 お酒を飲んでるわけでもないのにお酌を

されている気分になってしまう。

 お茶の作法にはあまり詳しくないからド

キドキしてしまう。

 湯呑を手渡してお願いした方が良かった

だろうか…。

 花茶から湯気と共に香りが立ち昇る。

 温かい空気を鼻から肺に取り込むと、既

に一杯目でポカポカしてきていた俺の体は

さらにリラックスして全身から緊張が抜け

ていく。





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