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短編集・読み切り



 カン、カン、カン…


 日付が変わる時刻になっても夏の夜風は

まだどこかぬるい。

 通っている大学からほどよく近く、そし

て財布に優しい僕の部屋は築ウン十年の木

造アパートだ。

 大家は年老いたじいさんで、錆びた外階

段を改装する予定はないらしい。

 その錆びた階段を、一週間前にレンタル

したDVD片手にゆっくりと降りる。

 細い路地に入ったところにあるこのアパ

ートには街灯の明かりでは弱く、階段の上

に取り付けられていた蛍光灯は数日前に点

かなくなっていた。

 暗い足元を確かめつついつもよりゆっく

りとした足取りで階段を降りていくと、ふ

と視界の中で何か黒いモノが動いた。


「……?」


 暗い中目を凝らしてみるとそれは体格の

いい男のようで、思わず踏み出そうとした

足を引込める。

 夏の夜に暗い階段に一人で座り込んで何

をしているのか、背中を向けているこちら

からは窺い知れない。

 しかし煙草を吸っているなら煙の臭いが

するだろうし、携帯機器を使っているなら

ディスプレイの明かりが見えるだろう。

 そのどちらでもなく、夏の夜にボロアパ

ートの外階段で座り込んでいる理由は何だ

ろう。

 酔っ払いか、痴話喧嘩の後に追い出され

たのか…絡まれたりするようなことがあっ

たら面倒かもしれない。

 …引き返そうか。

 そんな考えも過ったけど、手に持ってい

るレンタル商品の返却期限が今日だったこ

とを思い出す。

 明け方、店の開店前に返却ボックスに入

れてくれば延滞料金はとられない。

 けれどここで部屋に引き返して、また出

直すのは億劫だった。

 閉店前に返却してしまいたかったし、新

しいDVDを借りてきたかったのもある。

 少しだけ考えこのまま引き返すのも不自

然だと自分を納得させて再び階段を降りる。

 それでも臆病な僕は極力その人影を避け

るようにして、心の中でずっと“絡んでく

るな”と繰り返し続けていた。

 無事に何事もなく外階段を降りきると、

建物の角を曲がってアパートの駐輪場に向

かう。

 アパートの影に逃げ込んでからようやく

大きく息を吐き出して肩の力を抜く。

 階段に座り込んでいた人影は服装や肩幅

から考えておそらく男、腕の太さからみて

高校時代に運動部にでも所属していたのだ

ろう。

 背を丸め自らの掌に顔を埋めていたから

顔は見えなかったけど、泣いていたのか酔

っぱらってそのまま眠っていたのか…その

どちらかあたりだろう。

 DVDを借りて戻ってくるまでにいなく

なっているといいな。

 そう思いながら自転車に跨った。




 閉店間近の店の客は疎らだった。

 その店舗は一階には書店、二階にはレン

タルショップが入っていて、金のない貧乏

学生の僕なんかはよく通っている店だった。

 レンタルショップで借りていたDVDを

返し、また3本ほど映画のDVDを借りる。

 先週はレンタル中で借りられなかった映

画を借りられて、少しだけ心が浮き立つ。

 長い夏休みに何かやりたいことや目標が

ある学生はいいだろうけれど、僕のように

ただ何となく日々を消化している人間にと

ってはそんな小さな心の動きすら久しぶり

のように感じた。

 レンタルショップを出て階段を降りると、

書店の店員が店先で閉店作業をしていた。

 それを何となく目で追っていた時、ふと

平積みしてあった小説の帯が目に留まる。


『お前が「死にたい」 と無駄に過ごした今

 日は、昨日死んだ誰かが一生懸命生きた

 かった明日なんだ
   
        小説「カシゴギ」より』


 心臓に細くて長い針が撃ち込まれたよう

な錯覚と共に、一瞬呼吸を忘れた。

 ゴクリと唾を飲むと、乾燥した喉が潤い

を取り戻す。

 僕はしばらくその文字に視線を縫いとめ

られ、それから目を離すことができたのは

書店の店員が怪訝そうな眼差しを向けてい

ることに気づいてからだった。

 気まずくなって視線を無理やり引き剥し、

足早に駐輪場に向かう。

 自転車のカゴにDVDを放り込むとライ

トを点けてすぐにペダルを大きく踏み込ん

だ。

 小川の付近まで一気に走ってようやくペ

ダルを漕ぐスピードを緩める。

 まだ心臓の音がうるさいのも、こんなに

必死に自転車のペダルを漕いだのが久しぶ

りだからだと言い訳をする。

 決して店員の視線が恥ずかしかったから

じゃない。

 やましいことを考えていたわけでもない。

 まして、あの帯の文章に何か思うところ

があった訳でも…ない。

 ぬるい夜風を強めに受けながらボロアパー

トに向かって自転車を走らせた。





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あきゅろす。
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