[携帯モード] [URL送信]

悪魔も喘ぐ夜 Character Episode



「えっと、これは…」


 目の前の机の上にノートと数冊の本を開

き、その内の一冊の辞書をめくりながらノ

ートに書き写しているのと同じ単語を探す。

 最初こそアルファベットがびっしりと並

んでいる辞書で長時間調べ物をするだけで

へとへとになっていたが、それもようやく

少しだけ慣れてきた。

 机の上に広げられているのはアイルラン

ド語の辞書、その文章を訳す為の英和辞書

だ。

 ノートに書き写してあるのは子供向けの

童話集の中にあった一話で、一見すると英

語で書かれているようにも見えるそれは淫

魔社会で使われている言語で書き綴られた

ものらしい。

 俺の願いを聞いたクロードが入門編とし

て選んでくれた一冊だ。

 大学2年の夏休みが始まる前日、俺は迎

えに来たクロードに連れられて渡英した。

 しかし俺にとっては9月まで長期休暇だ

けど、社会人であるクロードは8月のロン

グバケーションに入るまで通常勤務のまま

だ。

 俺の大学でも夏休みの課題としてレポー

ト提出なんかも出されたが、それだけやっ

ていてもつまらない。

 どうせならこちらでしか出来ないことを

したい。

 渡英も4度目になると慣れたもので、ク

ロードが会社で仕事をしている間に何か俺

が出来ることはないかなと考えた。

 “俺もクロード達とネイティブに話せる

ようになりたい”

 郷に入っては郷に従えとは言うけど、ク

ロードも日本に来る時には魅了(チャーム)

の能力を使わず日本語で会話をしてくれた。

 だったら俺も淫魔の公用語を、クロード

達が普段使う言葉を話せるようになりたい。

 少しずつでも理解できるようになって、

いつか話せるようになったら俺もクロード

ともっと隔たりが無くなるような…気がす

る。

 現状が不満だというわけではなくて、ク

ロードの事をもっと知りたいと思った結果

そういう答えに行き着いた。

 本当はネット環境の整ったパソコンやタ

ブレットを使えるならもっと早く訳せるの

かもしれないが、こればかりはクロードに

頼まれているから仕方がない。

 “どこでハッキングされてるかも分らん

からいつどこで駆の情報が洩れてまうか不

安なんや。

 不自由させてまうけど、ネットや通話が

したなったらイングランド国内まで飛行機

飛ばすしそれで勘弁してくれへんか”

 1年前に初めて渡英してくるまでは、た

かが一介の学生でしかない俺の個人情報が

多少漏れたところで…と考えていたかもし

れない。

 けれどクロードの兄 ニールの一件があ

ってから、たとえクロードの実家でも安全

な場所ではないのだと骨身に染みた。

 日本から出たことがなかった頃は、淫魔

に襲われたらどうするんだと口を酸っぱく

して言われてもいまいち実感がわかなかっ

た。

 自分自身では気づくことも出来ない体質

の変化で、身近な兄弟どころか社会との関

わり方が変わってしまったのだということ

にいまいち実感がもてなかった。

 けれど海を渡り遠い異国の地に来て、言

葉も違う文化も違う場所でようやくそれを

実体験と共に理解した。

 血の繋がる兄と言えども信用できないと

吐き捨てたクロードの表情は険しくて、だ

から国際電話やネット環境が前提の通信手

段は控えてくれと頭を下げられた。

 俺としては週に1度の母さんとの国際電

話をするのに物理的な移動を必要になった

な、という位で特に不便だとは思っていな

い。

 必要な物はカイルが揃えてくれるし(ク

ロード経由でものすごく嫌そうな顔もされ

るけど…)、母さんとの電話は遊びに出か

けたついでで済ませてしまえるようにクロ

ードが配慮してくれている。

 クロードが仕事中の昼間に手持ち無沙汰

になってしまうのではないかという不安も、

やる事さえ見つけてしまえば携帯機器がな

い生活も思っていたほど苦ではなかった。

 俺が渡英の時に気兼ねなく暮らせるよう

にとイギリス国内でも気候の穏やかな北ア

イルランドに家を一件買ってくれたおかげ

で、夏も冬もとても快適に過ごすことが出

来ている。


「んー…」


 お目当ての単語をアイルランド語の辞書

で探し当て、その訳文を指でなぞりながら

今度はそこで分からない単語を見つけると

和英辞書をめくる。

 この二重の訳文というのが思いのほか手

間がかかる。

 単語単体で考えればいいというわけでは

なく、その文章でどう使われているのかと

いうのも重要だ。

 慣用句だったとしたらその部分は意訳し

て考えなければならず、仕事から帰ってき

たクロードに俺の訳文がおかしくないのか

チェックしてもらうのは、もう毎日の日課

のようになっている。

 クロードも仕事で疲れているだろうに嫌

な顔を一つせず俺の質問に答えてくれて、

童話の和訳そのものよりもクロードとのや

りとりが嬉しくて俺は二つの辞書の間で毎

日頭を悩ませていた。





[*前][次#]

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!