B 「さあて、そろそろ行かなくちゃ」 そう言って、出されていた紅茶を立ったままで、一気に飲みほし、彼女は医院を後にしようとした。 「姉さんの辞書には“マナー”って言葉が抜けてるだろ?」 「あら。出された物を残す方が、違反だと思うけど」 笑顔で憎まれ口を叩きつつ、姉を見送ろうと彼が立ち上がった瞬間。 …助けて… と、声が響いた。 頭の中で鳴ったはずなのに、なぜか彼は振り返った。 途端に視界に入った窓からは、異様に黒くなった雲と、こはくが好きだった木がみえた。 いつもと違って見えるのは、黄色に輝く光が葉の落ち始めた木を包んでいたことであった。 煌めく光は、まるで主人をみつけた猫がじゃれるように、だが、壁など無視してラズリの足元へとやってきた。 この異様な光景に驚くこともなく、ただただ彼は「こはく」を求めた。 (こいつを元に戻してくれ) ラズリは遠く響く人間の声を最後に意識を失った。 *** 動物病院の入り口には“休診日”の小さな札がかけられていた。 主が寝込んでから、すでに二日が経とうとしていた。 「ラズリ、まだ起きないんだね」 「……そうね、一番“琥珀”と会いたがっていたのはこの子なのに」 「うん。ラズリの声とサンゴのおかげだよ、僕がここにいるのは。だから、早く“ありがとう”を言いたいんだ……」 少年はサンゴに微笑んだ。 だが、寂しげな気持ちは隠しきれずに、彼はベッド端に両手をかけて床に座り込んだ。 その様子をみて、サンゴは安堵と不安の入り交じった複雑な思いを抱いていた。 彼女は猫であった事を利用して“こはく”を戻した。けれど、危惧していた違いは生まれてしまったのである。 ひとつは、彼女が彼になったこと。 そして、ネコが人になったこと。 彼女は自身の判断が正しかったのか悩んでいたが、その答えも彼の目覚めを待たなければ得ることはできない。 「もう朝だよ、ラズリ……」 ぽつりと、琥珀は彼の耳元で声をかけた。 [*前へ][次へ#] |