短編
Electronica(※母と娘の話)
エリカは父親に似ていた。母親はそのことを嘆いた。この子は私の、私だけの娘なのに、何故私を捨てた男に似ているの?
嘆く母親を見ると気が滅入った。だからエリカは父親に似ている顔を化粧で隠し、真っ直ぐな髪にはパーマをあてた。それでも母親は言う。
「お前は父親にそっくりね。」
部屋を見て、好みの服を見て、通知表を見て。
ぽつり、ぽつりとユリカから零れる一音ずつが、エリカを追い込んでゆく。
「変な子。」
変な子。おかしな子。私の娘なのに、変な子。――それが決定打。
啜り泣く母親を呆然と見下ろして、エリカが一歩後ずさると、ユリカが畳んだ洗濯物を踏みつけていた。踵の裏のやわらかくふわふわとしたタオルの感触は妙に現実味が無かったが、それがエリカを正気づかせる。
ぎゅ、と拳を握りしめ、エリカは部屋を出た。
「そんなの、要らない。」
その呟きが何を指すのかは彼女にしか解らないが、その日を境に彼女が変わったことは確かだった。
肩口まで伸びた派手なピンク色の髪はふわふわと柔らかそうに揺れて、ちらりと見える耳はカラフルな安っぽい大量のピアスが飾っている。小さな顔には少し大きすぎるラメ入り紫の縁眼鏡。マスカラで強調された長い睫が、時たまレンズに当たって鬱陶しいのか、ふとした瞬間に顔を顰める。お気に入りの蛍光色の黄色やオレンジのパーカーは問答無用で人目を攫い、スカートの裾から伸びる細い脚を覆うのは星柄のタイツだ。
視線をものともせず某スポーツブランドの数量限定スニーカーで軽やかに歩む少女の姿は、まるで異次元だった。どこもかしこも全力で主張しているのに、不思議とうまく纏まっている。現実離れした奇抜な調和は、エリカを人工的な存在のようにも見せていた。
ぴょんと立ち上がり、玄関の扉を開けて振り返ったエリカの、間延びした高い声が響く。
「おかーさーん、行ってくるー。」
リビングから顔を出したユリカが微笑んだ。
「行ってらっしゃい、エリカ。」
エリカは自分の母親の笑う顔が好きだった。
だからこれが、日常になった。
***
ノリトがエリカに会うのは今日が三度目だった。
エリカはノリトの姉であるユリカの娘で、ノリトの姪にあたる。
「あーおじさんだー。お久しぶりでー。」
へらりと目の前で笑う姪は、前回会ったときとはまるで別人だった。そして前回会ったときもそう思ったのを、ノリトは思い出した。
初めて会ったのはエリカが三歳、ノリトが大学生のときで、レポートに忙しかったノリトはあまりエリカに構ってやれなかったが、長い黒髪が印象的で引っ込み思案な、おとなしい娘だったのを覚えている。二度目に会ったのはエリカが中学に上がった年で、真新しいセーラー服を着て現れた少女の成長には随分と驚いた。然しそれ以上に、真っ直ぐだった長い黒髪が緩く波打って肩までの長さになり、おまけに軽くだが化粧までしていたことに驚いた。
正直なところ、本当にこれがあの引っ込み思案だった少女かと疑ったものだ。
そして今、前の前の少女はどこもかしこも派手で、ピエロのようにカラフルだ。
「……個性的なファッションだな。」
挨拶の前に、その衝撃的な姿への感想が口をついて出た。ノリトはエリカからの挨拶を無視する形になってしまったことに気付いたが、エリカは特に気にする様子も無く、再びへらりと笑う。
「やだなーおじさん。フツーですよう。」
色白で細くて華奢な、少し痩せすぎている不健康な印象は変わらないが、それ以外は何もかもが違っている。声だってこんなには高く無かったし、こんなに間延びした喋り方をする娘では無かった筈だ。一体どれほどの心境の変化があって、ここまで徹底した高校デビューをするに至ったのだろう。
「ああ……今の子は、そういうのが普通なの?」
そんなわけがない、と確信しながら絞り出した台詞にも、エリカが笑みから表情を変えることは無く。
「フツーですー。」
同じトーンでもう一度言われ、そうか、と何かを諦めたような心境で、ノリトは思う。この少女は歌うように言葉を紡ぐのだな、と。エリカの言葉には独特のリズムが有った。
「だってね。おかしいところは、ぜんぶ直したんですよう。」
エリカは再びへらりと笑い、ノリトはその笑顔に、昔見た水族館のミズクラゲを思い出した。水槽の中で色とりどりのライトに照らされて、幻想的に発光しながら漂うのだ。
頼りなく掴みどころも無い笑顔は、そんなミズクラゲに似ていた。
「そうか。」
「そうでーす。」
電子楽器で構成された音楽に合わせて漂うミズクラゲを想像し、ノリトはエリカに手を伸ばした。
ピンク色の髪は、案外さわり心地が良かった。
久々に姪に触れるのは、緊張した。海水から上がると直ぐにぺしゃんこになってしまう生物と重ねているせいもあるかもしれない。
「因みにおかしいところとは?」
前回そんなふうに感じた部分は無かったので、不思議に思い訊ねてみると、エリカはふっと表情を消した。
「恥ずかしいから秘密ですよう。」
恥ずかしがっている顔では無かったが、ノリトはそれ以上突っ込まずに手土産を渡した。
***
エリカは問題児である。外見はピエロの様に派手で、テストの点も平均以下。服装について指導すれば「おかしいところはありませんー。」と胸を張って、改善する気は全く無い様子である。何を言っても柳に風、全く手応えが無い。
そういうわけで、家庭訪問当日。竹本教師はエリカの家の前で気合いを入れていた。なにせクラスきっての問題児の家である。気合も入ろうというものだ。
「何してるんですか、せんせー。」
気合いを入れたポーズのまま一瞬凍りつき、振り向くと、クラスきっての問題児が無表情でそこに立っていた。彼女の家の前なのだから別段おかしなことではないが、「何故此処に!」と言い掛けてしまった竹本教師は、微妙な気まずさを覚える。
「な、何でもない。」
「ふーん、ふーん。そうですかー。」
優しさなのか興味が無いだけなのか、エリカは特に深く突っ込むこともせず竹本教師の脇をすり抜け扉を開けた。
「おかーさーん。せんせー来たっぽいー。」
玄関まで竹本教師を招き入れたエリカが、廊下の奥へと大きな声でそれだけ告げて、ふらりとまた出掛けていく。引き留めようとした竹本教師だが、エリカの母親に呼ばれ、その機会を逃した。
「いらっしゃい、先生。」
柔らかく微笑んだ彼女は、竹本の予想に反して常識的な佇まいだった。ごくごく普通の家庭のお母さんと変わらない。しいて言えば、多少スタイルの良い美人かもしれない。一流企業に勤めているだけあって、身だしなみはきちんとしている。
モデルのように背が高く女性らしい体型の母親から、どこもかしこも華奢で小柄なエリカが産まれたことを、竹本教師はとても不思議に思った。然しリビングのローテーブルを挟んで話をするにつれ、彼は納得していった。
結論から言えば、エリカの母親は強敵だった。竹本教師はエリカが問題児であることを説明したが、力説すればするほどに、彼女は喜んだのである。勿論「ええ、申し訳ない。」だの「躾けが行き届きませんで。」だのと眉尻を下げたりはするのだが、その口元はどうしようもなく綻んでいた。
奇妙に疲れた気分で家庭訪問を終え、エリカの家を出ると、塀の前に先ほどまで話題に上っていた少女がしゃがみ込んでいる。
「…何してるんだ」
「おー。終わったんですね。」
竹本教師の問いに答えず、エリカは立ち上がり、そのまま家の中へ入って行った。呼び止めようとした竹本教師は、その後ろ姿に、一瞬、息を呑む。気付いてしまったのだ。
エリカの行動は、インプットされたように機械的だった。
教室では音楽を聴いて過ごす。親しい友人を作らない。教師からの注意は適当に聞き流し、派手な外見について陰口を叩かれると意味ありげに微笑む。
姿の見えなくなった少女の家の前に一人ぽつんと取り残され、竹本教師は拳を握りしめる。
誰よりも自由に振る舞うエリカが、実は誰よりも自分を押し殺しているのだという事実に、気付いてしまった己を悔やんだ。
ユリカはエリカを愛している。
問題児のエリカを、愛している。
初めてのパターンに直面した竹本教師は、その夜、妻の前で珍しく溜息を吐いた。
***
ユリカが自動車に跳ねられたという連絡を受け、ノリトはエリカを学校まで迎えに行ってから病室に向かった。
頭を打っているため詳しい検査が必要だが、今のところ命に別状は無いと聞いていた。
意識もはっきりしているというから、エリカがひどくショックを受けることも無いだろう――と、思っていた。
「あら、可愛いお客様。兄さん、この子は?」
にこりと笑ってユリカは言った。ノリトは瞠目する。
「はじめましてー。エリカっていいまーす。」
おもちゃのように明るく高い音で、エリカが言った。また驚いて、ノリトは隣に立つ少女の横顔を見下ろす。ピンク色の髪の下に見える唇は、へらへらと薄情そうに笑っていた。
「エリカ? うちの子と同じ名前ね。あの子どこに行ったのかしら。」
首を傾げるユリカに、ノリトは絶句した。
目を見開いて、「何言ってるんだ。」と言ってやろうとして、けれどその台詞を言うことなく口を噤んだ。
シャツの袖を隣のエリカに引っ張られたからだ。
一瞬鋭い視線を向けられて、大丈夫だと伝えるように、唇が弧を描く。
ノリトはユリカがどれだけエリカを愛していたのかを知っている。ユリカがどれだけエリカを否定したのか知っている。エリカが、エリカの言う「フツー」の数だけ自由を殺したことを知っている。どれだけエリカがユリカを愛しているのかを知っている。
「どこですかねー?探してきますね。」
ことさら明るくエリカが言って、病室の外へ出る。ノリトはそれを追い掛けて、ドアを閉める寸前、ベッドの上の妹を振り返る。
薄情そうな口元は、娘とそっくりだった。
――ユリカもまた、エリカを愛していた筈なのに。
廊下の突き当たりの、自動販売機の前で、エリカは立ち止まった。
「エリカ。」
ノリトが呼べば、へらりと笑みを浮かべて振り返る。
「ですよねぇ。」
痛々しい笑顔だった。母親の為に今の自分を作ったエリカが、その母親に否定されたのだ。人形のような少女のアイデンティティが罅割れて、やがてがらがらと音を立てて崩れ去っていく。
ノリトは止める術も無く、ただそれを見ている事しか出来ない。
「私が、エリカ。で、合ってましたよねー?」
「ああ。エリカだよ。」
頷いたノリトに、エリカは力なく項垂れる。
「…やっと、お母さんの子どもに、なれたと思ったのに。」
間延びしない口調。独特のリズムを失った声が、その衝撃を物語った。下を向いたことで、ピンク色の髪の間から病的に白く華奢な首筋が曝される。
そうしてノリトは衝撃を受ける。
この浮世離れした少女が紛れも無く人間で、そのうえ子どもなのだという事実を、今更思い知った気がした。
「どうしよう、おじさん。」
弱々しい言葉よりも、空虚な瞳よりも、蛍光灯に照らされた細い首筋が何よりも衝撃的で。
ノリトはユリカのことには言及せず、そっとエリカの腕を取る。
「暫くは……ユリカが退院するまでは、俺の家においで。」
この子どもは自分が守らなくてはと、そんな使命感からの言葉だった。断られても説得する気でいた。
断る気力も無いエリカは、力なく頷く。
「それからエリカは、今までもこれからも、ユリカの娘のエリカだよ。」
そうして流されるままに、ノリトのマンションでの生活を始めた。
***
お気に入りは、リビングに置いてある焦げ茶色の丸テーブル。食べやすくカットしたオレンジと硝子の丸い器。ミルクティー、ミントチョコ、肌触りの良いクッション。
同じ家で暮らし始めて、ノリトはエリカの変わらない部分を知った。
洋服や家具など、形は可愛らしいものが好きだが、色はシックなものを好む。外出着に限っては、派手なものを買ってくるが、着ているところを見ると似合っているので不思議でならない。化粧は、年の割に上手い。毎日何かしら変化しているらしい。服装に合わせて化粧を変えるのは常識なので、毎日服を変えるのと同じく化粧を変えるのも須く常識の範疇であるらしい。男のノリトには考えの及ばぬ領域の話だ。
幸いなことに、ノリトとエリカの味覚は似通っていた。食べるものに関して気が合うならば、大抵のことはやっていけるというのがノリトの信条である。そして確かに、二人は大きな問題に直面すること無く、平和に暮らしていた。
「そういえば、付け睫ってやつはしないんだな。」
丸テーブルの上に広げられた化粧道具を見下ろして、ノリトが言った。
「つけま重いから嫌いなんですよう。」
相変わらず独特のリズムで歌うように返しながら、ソファの上で膝を抱えたままメイクするエリカ。モノクロで纏められた部屋の中、極彩色のエリカという存在は浮いて見える。
「まぁ、必要無いか…。」
するりと納得したノリトは、斜め上の角度からエリカの顔を見下ろしている。付け睫などしなくても充分に長く濃い睫が目を縁取っているのを認めて、やはりこの少女は元々人形のように整った顔をしているのだと頷いた。
化粧の力が大きいとはいえ、ピンク色の髪がうっかり馴染んでしまうのだから、平均以上に整っている事は間違い無かった。
「よぅし、終わりましたよー。」
意外にも几帳面な仕草で化粧品を片付け、エリカが言った。
二人はのんびりと家を出て、車に乗る。行先はユリカの入院先だ。
病院の廊下を歩いていればご老人方はぎょっと目を剥いて振り返るし、子どもたちも物珍しげに凝視してくる。
「あら、またいらしてくれたのね。」
ユリカはエリカとノリトを歓迎した。病院に居ると人恋しくなるらしく、今なら反りの合わない実家の母でも歓迎出来そうだなんて冗談まで口にする。
「もう直ぐ退院だって?」
「そうなのよ。やっとベッドから解放されるわ!」
エリカはノリトに渡された缶ジュースを飲みながら、二人の会話をにこにこと聞いていた。偶に話を振られると当たり障りなく受け答えをする。
話は多岐に及んだ。
会社はどうなっているだろうか、両親は案の定見舞いにも来ないけれどその方が気が楽だ、ノリトはきちんとエリカの世話が出来ているのか、というかいい加減に恋人くらい作る努力をしたらどうなのか。
夕方になって病室を出るとき、ノリトは疲れたように溜息を吐いた。
「あいつ、ほんとお喋りになったよなぁ。」
「……うん。」
エリカは首肯する。
確かに饒舌な人だ。エリカが今みたいに派手な格好をするようになって、そうなった。
父親の面影を捨てる度、母が明るくなっていく。笑顔が増える。それが嬉しかった。
ただ喜んで、安堵していた。
ふと、気付いた。
――それでは駄目だったのかもしれない。
ユリカはプライドの高い女だった。
愛した男が自分を置いて行っても、復讐に走ることは己のプライドが許さなかった。
そんな女に成り下がるくらいなら、お腹の子どもの為に女よりも母親として生きたかった。
ちゃんと育てよう、と思っていた。あんな不誠実な男に似ることの無いように。あんな男のことなど一切忘れて、自分だけの娘として。
その想いが、ユリカの目を濁らせた。
父親に似ているところばかりが目について、それを排斥しようと躍起になりすぎていたことに気付いたのは、エリカの髪がピンク色になった日のことだった。
ここまでさせてしまったことを悔いた。父親のことを極力口にしないようにした。これ以上追い詰めてはいけないと、笑顔で楽しい人のように振る舞った。それだけでエリカはよく笑うようになった。
今のエリカを作り上げたユリカだけは、エリカを否定してはいけないと思った。誰に否定されても微笑んだ。自慢の娘だという想いは心からのものだった。だって、優しすぎる程に優しい娘だということは、その優しさを一身に向けられる自分が一番知っていた。
今のエリカを肯定することで、やっとまともな母親になれたのに――事故に遭った瞬間浮かんだのは、幼い頃のエリカの顔だった。
愚かにも、思い出を白紙に戻すことを、自分で望んだのだ。
「おかえり、お母さん。」
「――……ただいま、エリカ。」
退院の日、家のドアを開けたユリカが涙を溢すのを、エリカは苦笑して見下ろした。
その髪は黒く染め直されていた。
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