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短編
泥濘を歩く(※ど暗い、世界観のみFT、手紙形式)

 こんにちはジェイムズ、貴方に手紙を書くのは初めてのことですね。書き置きの内容が実行していただけたと知り、個人的な伝を使って貴方の部屋に手紙を届けてもらいました。五体満足の無事であるという点についてだけはご安心ください。
 お願いしました通り、メルエラ・アシェルバートは死にました。貴方は優秀な家令ですから、勿論弟も私が死んだと思い込んでいることでしょう。然し貴方は、私の命令に納得がいっていないのではないでしょうか。そう思い至ったので、仕事とはいえよく尽くしてくださった貴方には義理を果たさねばならないと、こうしてペンを取った次第です。人にお願いをする際には誠意を尽くさねばならないと説いてくださったのも貴方ですから、お願いを聞いてくださった貴方への誠意の証として、誰にも言わなかった私の家出の理由をお話し致します。

 これは誰にも話さないでくださると嬉しいのですが――私には心を寄せる方が居ります。
 勘の良い貴方のことですから、現状からしてその恋は叶わなかったのだと薄々お察しかと思いますが、その通りです。私がどんなに彼に尽くしても、愛を囁いても、彼が私を愛さないことは分かっています。彼は私を穢らわしい女だと思っていますから、私のような者に好意を向けられることすら、甚だ迷惑なことでしょう。彼は周囲から私の穢らわしい噂を吹き込まれていますし、それがまったくの嘘である筈が無いと考えています。火の無いところに煙は立たないと申しますものね。ええ、それは確かに、その通りでしょう。
 死んだ母親と瓜二つの私が、父を――下品な表現になることをお許しくださいね――誘惑して寝台に連れ込んでいるという世間の噂の中で、少なくとも私が母に瓜二つという部分は本当です。庶民だった母を父が囲って愛人にしたことも事実です。そのことで世間の人が母を“金の為なら何でもする淫売”だと思っているのも、娘の私が同じような女だと決めつけるのも、この社会の在り方の中では仕方の無いことです。だって世間の人たちは、父に拐われて屋敷に閉じ込められた母がどんな生活をしていたのか知りようも無いのですから。
 ジェイムズ、貴方ですら母の部屋には入ったことがありませんから、ひょっとしたら母のことを疑う気持ちがお有りかもしれません。不名誉な疑いだと思われたらごめんなさいね。貴方のことは大好きだけれど、誰も彼もが屋敷の中では母の話題を避けていたものだから、母に関してはその心を信じられずにいるのです。どうか臆病な娘の言うことと思ってお許してください。
 母が淫売では有り得ないということは、同封した鍵を使っていただければ直ぐに分かるでしょう。今も母の使っていた部屋の窓には鉄格子が填まっていますし、寝台には枷が付いたままです。絶望した母が自傷しないように硝子や金属のものは置いてありませんでしたし、家具の角はまるく削ってあります。全て父が一人で手配したものです。扉に残る爪の痕や鉤裂きになったカーテンには驚かれるかもしれません。染み込んだ血を落とすことを諦めてしまいましたから。
 屋敷に勤めるものなら皆知るところであるように、あの部屋の扉には鍵が掛かっていて、それを持っているのは父と私だけになります。母が死んでから、父は部屋の合鍵を私に寄越したのです。父が死んで、父の使っていた鍵はここに同封しましたから、今は私と貴方だけですね。

 母が死んで三日目の夜、父は母にどんな仕打ちをしたのか、泣きながら打ち明け、そしてあの部屋の中を見せてくれました。私は部屋の中を見て言葉を失いました。何せ前述した通りの有り様でしたので、母が高貴な虜囚そのものの生活をしていたことを一目で思い知ったのです。
 母がアシェルバートの屋敷にやって来たのは、貴方が十代の使用人だった頃だそうですね。母は元々繊弱な女性で、そんな風情でありながらも下町のパン屋で必死に働く姿が父の目に留まったのだとか。父は直ぐに母に結婚を申し込み、母は父の求婚を断りました。というのも、母にはそのとき将来を誓い合った恋人がいたからです。
 父は母の恋人が軍に所属していることを知ると、恋人を西の要塞へ送ることは自分の権力を使えば朝飯前だと仄めかし、母が恋人と別れるように仕向けました。それから同じ手を使って、自分の屋敷に棲むように言い付けました。母は直ぐに私を身籠り、産み落とし、四歳になるまでは慈しんで育ててくれました。けれど私に魔術の才があると分かると、突然気が触れました。
 母と母の恋人には魔術の才が無く、父は魔術師としても知られています。もしかしたら恋人の子どもかもしれないという、母の唯一残った希望を、私の魔術の才が絶ち斬ってしまったのです。私に魔術の才が有るということを母に報告したのは幼い日の無邪気な私でしたから、私は目の前で母が狂う瞬間を見ていました。あの瞬間のことは今でも忘れられません。それまで穏やかに微笑んでいた母の瞳が一瞬で恐怖の色を帯び、けたたましい悲鳴と共に突き飛ばされたのですから、衝撃は相当のものでした。三年母から離されて、再開したとき母は既に物言わぬ姿になっていました。

 母は憐れな女です。そして母をそんな風に愛することしか出来なかった父もまた、憐れな男です。父は唾棄すべき行為をしましたが、私は父を嫌いになりきれませんでしたし、あの部屋で母の名を呼んで懐かしむ父と話すのが好きでした。
 驚いたことに、あの部屋では父は苛烈な性情を静められるようでした。私の胸には父の穏やかな表情を知っているのは自分だけであろうという優越感が有りましたが、勿論それは実の娘として有りがちな独占欲の域を出ません。父は母の部屋の合鍵をくれて、そして時折、あの部屋で母の話を聞かせてくれました。
 やがて父が継母と結婚して弟が産まれましたが、あの部屋に立ち入る権利を持つのは相変わらず父と私だけでした。継母も弟も使用人も、あの部屋の中で何が起きているのか知ることは出来ませんから、そこから邪推する者が出てきたのでしょう。
 誓って申し上げますのは、私と父は、ただ母の気配の残る部屋で、母との思い出に浸っているだけだったということです。ですから私は淫売でも淫売の娘でも無いと自信を持って言えますが、母を狂わせたのが己であるという自覚の為に、穢らわしいという彼の言葉には否定を返せませんでした。

 さて、ジェイムズ。こうして今、貴方は私と父の真実を知ることになったわけですが、私の恋した人は当然のことながら、そんな真実など知りませんでした。
 触れるなと言われて目の前で嘔吐されたとき、私は愛というものの残酷さを思い知りました。それまでは彼の嫌悪、いっそ憎悪と言っても良いような感情を甘く見ていたのだろうと思います。あの頃の私は口さがない世間の噂など恐れるに値しないものと信じていたし、実際それまで不利益を感じたことが無かったのです。愛する弟は噂を知って一時態度がぎこちなくなりはしましたが、直接私に真偽を訊ねて否定されてからは気にしていないように見えました。彼の耳にも噂が聞こえているだろうことは予想していましたが、だから否定さえすれば噂など気にしなくなるに違いないと、私は勝手に思い込んでいたのです。
 あの方は私の言葉など聞きたくない、信じるに値しないと仰いました。彼のお母様がお父様の浮気癖のせいで心を病んだということを承知していましたから、私は彼の態度に腹を立てることはありませんでした。それよりも彼のことが心配でたまりませんでした。顔色を悪くして嘔吐する人に対して、心配も同情もするなと言う方が難しいことですから。
 腹を立てこそしませんでしたが、眼前の光景は、彼の言葉が年頃らしい照れや恋愛事への軽蔑からくるのではないかという一抹の期待を萎えさせるには充分でした。それが人目の無い城の裏庭の出来事であったことは、せめてもの救いだと言えるでしょう。
 それからというもの、私の愛は何度も挫けようとしました。彼はそれに関して、ある意味ではとても協力的でした。他ならぬ私がそう仕向けたのです。だというのに恋の熱情というのはまるで消えぬ熾火のようで、何度もこの身を燃え上がらせ、心は焦げ付いて熱に喘ぐしかありません。こういう恋の儘ならなさというのは、屹度多くの人が知るものでしょうから、貴方にも想像が付くのではないかと思います。貴方と奥方の恋物語は、屋敷では有名でしたから。

 ジェイムズ、恋で傷付く女なんて珍しく無いけれど、問題は私の恋が傷付けるのは私だけでは無かったということです。この穢れた身は彼の視界に入るだけで彼を傷つけ、その事実に私も傷つくだけ。不毛な感情は捨てるべきなのに、どんなに彼の悪い噂ばかりに耳を傾けて軽蔑しようと努めても、いっそ彼を無視しようとしてみても、心が彼のほうを向くのを止められないのです。
 どんなに乞うても心を手に入れられず、祈っても諦められないと知って、せめて彼の視界に入りたいと思いました。彼の見る世界の中に私が居るのなら、それで充分だと思おうとしました。
 幸いにも、私にはまだ弟という救いが残されていました。弟の為に生きる、それでこれまで通り、私の心臓が血を流し続けていようとも生活は平穏を取り戻すでしょう。然し彼は私から弟を遠ざけました。父の葬儀の後のことです。あの女のような穢れた人間の側に居るべきでは無い――優しげに促す声に弟が頷くのを聞いた時、今まで信じてきたものが土台から崩れ去るのを感じました。そして弟は急によそよそしくなって、遠く全寮制の学園へ通うことを決めてしまいました。
 弟を守ってきたことに後悔はありません。それは私の義務で、私以外にその義務を科された者はもうこの世に居なかったのだから。継母はどう見ても守られる側の人間で、弟が継母を守っているのだから、私が弟を守らねばなりません。あの天使のような弟の無垢を守りきれなければ、私は仮に天国へ行けたとしてもその楽園に背を向け、自ら地獄に向かって歩んでいたに違いないのです。穢れた私の生の中で、弟は光の象徴でした。私の最後の救い。生きる理由。その弟が私の前から消えることを選び、愛する彼は私を彼の世界の一部だと認めようともしない。私は弟の汚点であることを否応なしに自覚し、弟を迎えに行くことを諦めました。
 弟を喪い、私は絶望の淵にありました。夜毎悪魔が私を誘う声がするのです。彼らは私の耳許で、彼を殺せと囁きます。
 彼を欲しました。癒したいと思いました。でもそれは無理なこと。
 彼に近付こうとして、傷つけて、諦めようとしました。でもそれは無理なこと。
 愛されることは不可能、愛を認めさせることも不可能、諦めることも不可能。ならば私は死ぬまで一人、彼に焦がれる苦痛を忘れられないのですか。そんな人生に何の意味があるのですか。

 悪魔の囁きに乗ってしまおうと考えたことは一度や二度ではありません。おそらく私はその度に彼を憎もうともしたのです。けれどどうしても、私を振り払ったときの打ち拉がれた姿が目蓋の裏に過って、短剣に触れる指先がそれを確りと掴むことを躊躇いました。
 これではいけないということは分かっていました。自暴自棄になっているのだと自覚していました。だというのに、進むべき道は少しも見えてこないのです。
 彼の姿を見掛ける度に殺すことを考え、実行出来ずに逃げ帰る日々でした。逃げ帰った先の家に弟は居ないというのに、そこかしこに弟の気配が残っていました。弟の洋服やぬいぐるみ、練習用の剣などを見るとどうしてか笑えてきました。家での私は笑っているかぼんやりしているかのどちらかでした。
 不思議なことに、弟を奪われてから涙をこぼしたことはありません。救いを喪ったことで、泣くという行為に付随する自浄作用すら必要が無くなったのでしょう。様子を見に来た叔父夫婦にはそれが痛ましく思えたのか、夏休みの間中は海の見える別荘で過ごすよう勧められました。貴方もそれが良いと賛成してくださいました。それが暖かい心遣いだということは分かっていましたから、私はその勧めに従いました。

 家族の痕跡も彼の姿も見えないところにいると、自然と落ち着いてきて、彼を憎む必要は無いと思えてきます。そんな人生に何の意味があるのかと前に書きましたが、彼を責めるのはおかしな話だと気付いたのです。彼や弟以外に意味を見出だそうとしなかったのは私の選択であり、私の人生の責任を私以外に負わせようとするのは間違ったことなのだから。
 全て自分の責任だと認めてしまうと、幾分かは楽になりました。母の名誉を取り戻す努力もしなかった癖に、殆ど私のことを知らない彼に対して私を信じてくれるに違いないという馬鹿げた妄想を押し付け、彼を傷付け、そんな女だから弟が去った。これを自業自得と言わずして何と言いましょうか。
 私は選択肢を間違え続けたのです。その結果としてこの現状があるというのが、違えようもなく真実です。
 やはり叔父夫婦の勧めに従って良かったと思います。これからどうするかに人生が掛かっている――海沿いの街で、久々に前向きな気持ちになることができました。
 第一に、自立すること。弟は私の導きなど無くとも、自分の力で、ときに周囲の力を借りて、道を切り開くことの出来る子です。今まで私は弟を助けているふりをして、依存しているだけだったのかもしれません。あの女は為にならないという彼の言葉は、彼だけでなく世間の評価です。母方の血統の由緒正しいとは言えない私は、弟の邪魔になるだけでしょう。ですから私は家を出ることにしました。
 第二に、彼の視界に入らないこと。私はやはり彼を愛さずには居られないのです。そして愛する人を傷付けたくは無いのです。だから遠くへ行きます。彼を手に入れられなくとも、私の心の中に在る彼への想いは私だけのものなのですから、私は私の中に居る彼を愛することだけは自由なのです。離れているときはそれで満足出来るし、誰に不快な思いをさせることもなくなるでしょう。下手に近付いてしまうから、彼の姿を偶然にでも見掛けられるような場所に未練がましく残っているからいけないのです。この恋を捨てることも出来ないのなら、誰にも分からないように、彼にも彼のお友達にも私の姿が見えず噂の聞こえない何処かへ行くしかないではありませんか。いっそ何の関係も無い、誰も私と結び付けないであろう土地が良いでしょう。

 私が家を出たのはそういう経緯です。恋に狂った愚かな女に成り下がった私を軽蔑なさったでしょうか。どちらにせよ弟の不名誉を恐れて遠からず家を出たとは思いますが。
 それでもジェイムズ、貴方に聞いていただかなくてはならないお願いが有ります。最後のお願いです。
 その鍵の部屋の中を、弟には見せないと約束して欲しいのです。弟は父を尊敬していますから。
 その部屋は取り壊してしまうか、改装してしまうのが良いでしょう。万が一のことを考えて目眩ましの術は掛けてありますが、この類の術は経年劣化しますから、恐らくもって五年です。それが終わったら、貴方の持つ鍵は処分してください。
 貴方が優しいことは知っていますが、どうかジェイムズ、躊躇わずに。メルエラ・アシェルバートは死んだのですから、もうそんな女には気を使わないで。貴方はあの子の為だけにそうするのだと分かってください。
 私と父と母の思い出は、手元に残った合鍵ひとつで充分ですから。




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