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短編
深夜貴族

 駅前にある居酒屋チェーン店のカウンター席にて、天麩羅の盛り合せと大根サラダに舌鼓を打ちながら、馨は隣の席に座る男の動向を窺っていた。話が有ると言って呼び出されたのに、男は随分と長い間黙りこくっていて、馨のグラスに入った柚子サワーは既に三杯目に突入している。

「済まない、妻とは別れられない」

 漸く口を開いたと思えばそれだったので、馨は殆ど聞いていないような様子で食事を続けながら、此処でその話を切り出すのかと内心でぼやいた。
 しかし、驚くほど凪いでいる。いくら自らの心の内を探っても怒りも悲しみも見つからない事実が、馨に諦念をもたらす。

 ――やはり、私には恋など出来ないのだろう。

 何度目かの落胆は、男に別れを切り出されたことではなく、あまりにも冷徹な己の恋愛回路に向けられていた。
 背後のテーブルで合コン中らしい大学生たちの笑い声が上がる。一瞬そちらに気を取られて、柚子サワーを飲み込んでから隣の男に視線を戻す。彼は馨と同じ会社の他部署で働く既婚者で、役職付きという他には特筆するところの無い平凡な男だ。濃灰色のスーツも、黄色っぽいネクタイも、高価なものではなく、かといって安くもなく。そういう無難なラインで揃えていて、時計と靴だけは良い値段のものを使っている。
 典型的だ、と馨は思う。或いは、正統派。二人が静かな修羅場を迎えたこの居酒屋チェーン店と同じように、食べ慣れた味、見慣れたレベルの男だ。恙無い日常とか平穏とか、そういうものを擬人化したらこうなるというレベルの、ありふれた中年男性。そこが好みで、好きになれそうな気がしていたけれど、結局その見慣れたレベルの男が馨の肌には馴染まなかった。男にとっては馨との関係だけが、正統性の無い秘密である。

「……ふうん。それで、どうするんですか?」
「どうするって、」

 男は虚を疲れたような顔をするが、この会話の流れは読めていただろう。その場しのぎの発言で遣り過ごそうとする癖は、この年になればもう仕方の無いものかもしれないけれど。

「貴方が決めて」

 男は苦い顔をした。彼は先程済まないと謝ったが、奥さんと別れてくれなどと、そもそも馨は言っていない。関係を持って暫くしてから、“これは浮気か”と気付いたので、男から離れようとした。同じ会社に勤めている身では自然なフェードアウトに無理があった為、奥さんと私のどちらを選ぶのかと訊ねただけだ。
 嫉妬も優越も無い、ただの質問だった。もしも彼が妻を選んだとしても、馨は別に構わなかった。本命が妻なのは、当然のことである。寧ろ男に馨が振られる形になるのが一番後腐れなく済むので、そうなればラッキーだと思っていた。けれど自分から男に別れを告げる気は無い。馨は恋愛事に関しては、相手がどんな人間であれその判断に従う。馨には恋も愛も、それに付随する哀や憎悪すら分からないからだ。ままごとに付き合うだけのお人形状態で、相手にひたすら従う。相手の望むように振る舞う。しかし浮気は悪いことなので、したくない。恋愛不感症な馨は、けれど倫理観はまともに持っているのだ。

「別れよう」

 男はむっとした顔で言った。別れよう、ということは私たちは付き合っていたのかと、馨は今更ながらに知って新鮮な気分になった。甘い言葉を囁いて、隠れて食事やセックスをし、男の弱音を聞く――そういう状態を、付き合っていると言って良いのか、馨には判断出来なかったのだ。

「ん、分かりました」

 あっさりと頷いて、近くを通った店員を呼び止め会計を済ませる。マツモトと名札に書かれたその店員の、男らしい角刈りの髪型や涼しげな一重瞼の顔がなかなか好みで、しかし好きと好みは違うんだよなと首を捻る。
 顔や体型、服装、それから性格にだって、こういう人間は好ましいと思うようなものは有るのだ。そういうものを見て、この人のことは好きになれるだろうかと思う。けれど今までに好きになれた相手は一人も居ない。また好きになれなかったと、終わりが来る度それだけを残念に思う。
 馨は時たま――直ぐに忘れるようなことなのだけれど、定期的に――このままで良いのだろうかと、不安になる。このまま誰も愛さず、憎みもせず、生きて死ぬのか。それで人間の本分を果たしていると言えるのか、と。
 本能のままに貪り合うような激しい恋を知らぬままで、平坦なだけの人生を終える。そんな自分が、生物として劣ったもののように感じる。
 要は、馨は流されやすい割に頭の固い女なのである。しかしその考えがネガティブ過ぎることは理解していて、表に出さないようにしているから、馨の考えを訂正する者も居ない。

「あの!」

 店を出たところで、馨はバッグを掴まれて立ち止まる。驚きつつ振り返ると、知らない顔の青年が立っていた。垂れ目の割には目力が強すぎて目付きが良くないが、整った顔立ちをしている。体つきも、やや痩身な気はするものの悪くない。
 アイドルよりかは俳優顔だな、と馨は品定めを済ませ、顔は知らないが髪には見覚えがあると気付く。毛先をワックスで遊ばせた赤茶色の髪は、先程まで馨たちが飲んでいた席の背後の座敷で盛り上がっていた一団の中に見えたものだ。

「何か?」

 殆ど接点の無い青年に声を掛けられ、理由も思い浮かばず訝しむ。
 青年は少しまごついてから、真っ直ぐに馨の目を見て言った。


「俺のこと、飼って欲しい」


 ――いきなり何を言い出すの。
 馨は呆然としながらも、青年に確認した。

「それは、……どうして?」

 何故飼われたいのか。何故私なのか。突然すぎる事態に、何を聞きたいのか自分でも把握出来ていなかったが、兎に角それだけは口にすることが出来た。

「あんたに飼われたいと思ったから。一目惚れなんだ」

 青年はそう説明して、「頼むから」と必死に言い募った。

「あのおっさん、唖然としてた。あんた振り返りもしなかったろ。未練なんかとっくに無いんだって分かった。すげぇ痺れた。だから、あんたが俺のご主人様。……ね、良いだろ?」

 馨は別れ話を聞かれていたことに気付いたが、そこは深く気にしていなかった。そんなことよりも、「飼って欲しい」という第一声に衝撃を受けていたのだ。付き合いたい、ではなく飼われたい、と言われたのは初めてだった。じっと返事を待つ青年に、馨は戸惑いながら首を傾げる。

「私、人を飼ったことは無いから、どうしたら良いのか分からないけど、それでも?」
「あんたが良い」

 間髪入れず真顔で応じる青年に、そこまで言うならと真面目に検討してみることにする。

「具体的に何をするんですか?」
「俺があんたをちやほやしたり、労ったり、甘えたり、叱ってもらったり。よく懐く犬か猫だと思ってくれれば良いから」
「セックスは?」
「あんたがしたけりゃ命令して」
「命令……」
「俺、あんた好みに躾けられたい」

 青年はあくまでも真剣に、質問に答えていく。考えてみればみるほど質問は際限無く涌き出てくるし、キリがない。だからこれを最後の質問にすると決めて、短く訊う。

「それ、楽しいですか?」
「俺は楽しい。あんたは分かんないけど、楽しませたいと思うよ」
「……そう」

 馨は頷く。

「取り敢えず、いきなりそんなことを言われても困ります」

 青年は残念そうな顔をする。

「やっぱり?」

 しょんぼりと項垂れる姿が、濡れた犬のようだった。
 馨は猫を飼っているが、犬も嫌いではない。住んでいるのがマンションなので、広さの関係から猫を飼うことにしたが、特に大型犬は好きで、たまに街中で散歩している大型犬を見ると、ついつい顔が綻んでしまう。
 だからだろうか、つい甘い顔をした。

「飼うなら、特に大きな動物なら相性は大切だし、よく言うことをきくのでなければ不安でしょう。それに、大きな買い物をするときにはタイミングが重要だと思います」

 ばっ、と青年が顔を上げた。ぎらぎら輝く瞳に、馨は一歩退こうとして、空色のパンプスのヒールがアスファルトに引っ掛かったことで退き損ねた。

「俺、結構従順で飼いやすいよ。若いから体力もあるし、荷物運びとか、高いところのものを取るとか、便利だし。バイトのシフトも、先に予定教えてくれれば合わせる」

 こんなに意思の強そうな青年が、ペット希望――馨は改めて不思議に思う。目の前の青年は、どう見ても被虐趣味でもヒモ体質でもなさそうだ。普段なら決断を相手に投げる馨が躊躇しているのは、この青年が根底のところではきっちりした決断力の有る真面目なタイプだと分かるからである。見た目がきっちりしたお嬢さんで根底が真面目ゆえに隠れ自暴自棄な馨とは正反対だ。

「貴方はもう少し考えた方が良いですよ」

 言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぎながら、馨はとても困っていた。婉曲な言い方では、諦めてくれないような気がし始めていた。

「俺だけの、理想のご主人様が欲しいって、ずっと思ってた。やっと見付けたのに逃がすわけにはいかない。タイミングが重要っていうなら、今が俺とあんたのタイミングだと思う」

 馨は頭が固い。そして流されやすい。青年のアブノーマルな言葉選びに圧倒されつつも、アブノーマルな関係を避けたいが為に拒否を続けていたが、ここまで言われると断るのも申し訳なくなってくる。

「……うん。なんかもう、良いかな……」

 馨の呟きに、青年は唇を強張らせた。いきなり“もう良い”と言われたのを、“もう相手にするのも面倒”という意味合いで受け取ったのだ。迷惑であろうことは分かっていても声を掛けずにはいられなかった青年にとって、嫌われるよりも面倒臭がられる方が痛かった。実際には、“もう、ゴールしても良いかな……”が正解だが。
 馨は青年の首に手を伸ばす。びくりと震えたけれど抵抗はしてこない身体を無視して、ぐるりと一周、指先で首回りの太さを測りながら訊ねる。

「首輪は、人間用で良いの?」

 そういうことになった。
 自暴自棄になったわけではない。馨はひどく冷静だった。強いて言うならば、通常の状態で自暴自棄なのかもしれない。


 時刻は深夜に差し掛かっていた。
 馨は青年をマンションに連れ帰り、犬にするように頭を撫で、ぬいぐるみにするようにキスをして、執事にするように紅茶を淹れろと命じた。
 青年は嬉々として、馨の全てに従った。
 こんな感じで良いのかと尋ねる馨に、青年はとても良い笑顔で大きく頷いた。

「思った通りだよ。後は、もっと俺に慣れて」

 初対面の相手にしては随分と横暴に振る舞ったつもりの馨としては、少し困惑する。猫を撫でているときの方が手つきに愛を感じると言われても、そんなのは仕方の無いことだ。

「そんなのは、貴方が頑張れば良いでしょう」

 突き放した言い方をした後、“しまった、今のは傷付けたかも”と青年の顔を見た馨は、思わず愛猫を撫でる手を止めていた。
 青年は、やる気に満ち溢れた、やたらと良い笑みを浮かべている。

「わかった。絶対、あんたの一番のペットになって、最終的には着替えまで手伝ってやるから」
「……へぇ……」

 若い子の考えることは分からない、と歳を感じる馨の手のひらに、愛猫が“もっと撫でろ”と言わんばかりに頭を擦り付けてきた。馨は愛猫の可愛らしい仕草に頬を緩めながら撫でるのを再開し、青年は馨の膝を陣取る猫を睨み付ける。
 にゃーご、と馬鹿にしたように猫が鳴いた。滅多に鳴かない猫なので馨は驚き、青年は目の端をぴくぴくさせた。
 一番のペットへの道程は遠く、越えるべき壁は果てしなく高い。一人と一匹の間に散る火花を無視して、馨は優雅にティーカップを傾けた。大衆居酒屋もあの上司も、馨の肌には馴染まなかった。アルコールより紅茶が好きだし、固いスーツの布地より猫を撫でる方が良い。ひょっとして、これって枯れているのかしら……。
 頭の固い馨は考えすぎて疑心暗鬼に陥った。そして静かに優しく猫を床に下ろすと、青年をベッドに押し倒した。





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あきゅろす。
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