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短編
立ち枯れのむらさき(※ダークサイドなホームドラマ…?)



 八歳の夏、血の繋がった父親を知って抱いた感想は、“ああ最低の男なんだなぁ”だった。
 我ながら、平和な先進国に生きる世間一般の人々からは同情される環境に産まれついたと思う。
 金で繋がれた愛人でもない。ごく普通の家庭の、ごく普通のサラリーマンの男性の、単なる浮気相手の女が産んだ子ども。しかもその女、姉の婚約者を寝とったという理由で実家を勘当されて都会に出て来たという生粋のあばずれ。
 当然のように夜の仕事をしていて、娘と顔を合わせることは滅多になく、育児放棄。殴る蹴るの暴行は無かったけれど、微笑みかけられたことだって一度も無い。徹底して存在を無視された。今はそういうの、ネグレクトって言うんだっけ。
 懐かしき、もう二度と戻りたくない日々。
 それが終わったのは母が死んだ日で、血の繋がった父の顔を知った日だ。
 珍獣を眺める心持で眺めていた私に向かって、早足で近付いて来た背広の男は、認知はしないから施設へでも行けと言った。もともと期待はしていなかったが、幼子へ向けて何というクズ発言をするのかと寧ろ感心したものだ。流石はあの母親が選んだ男。

「はぁ…」

 思い出と呼ぶには美しくない記憶の数々に溜息を吐く。らしくない感傷を抱いたのは、今日の空気が初めてあの人――認知もされていないし父とも思っていない――と会った日と、よく似ているからだろうか。
 梅雨も明けたのに湿気がひどくて、湿気があるのに気温は容赦なく上がる。熱中症で倒れて病院に運ばれた患者の数が今年最高だとかニュースで流れるような、そんな日。家の中は涼しいけれど、午前中に来た外からの客は死にそうな顔をしていた。

「紫乃、どうした?」

 首を傾げたのは今の養父だ。今では私を溺愛する彼は、母と身体の関係を持つ一人だった。恋人では無かったと思う。金の遣り取りも無かったというから、いわゆるセックスフレンドというものだろうか。

「遺伝子上の父親を思い出してたの」

 あの女とは一夜限りのつもりだったと、暫く前に養父は告白した。
 六歳のとき、母との行為を終えたこの男と目が合ったのだ。初めて見る男だなと観察していると、がらんどうの眼が面白いと、頭を撫でられた。彼は名前を教えてくれたが、どうせ直ぐに来なくなる男のことを覚えようとは思わなかった。他人に触れられた最初の記憶がそれだ。母が私に触れたことは無かったから。
 男は本当に私を気に入ったらしく、私に会う口実に何度か母と寝たという。母が死んで、血の繋がった父親が言いたいことを言って去った後、満面の笑みを浮かべた男が私を抱き上げた。抱き上げられて誰だと尋ねると、男は六井恭片と名乗った。それが今の養父だ。養父が母の葬式を手配してくれて、私は初めて母に触った。母は冷たかった。生きているときは温かかった筈だが、それを知らないのだから仕方が無い。私にとって母とは、氷のように冷たいものだ。

「…ああ、あの男」

 低く呟いた養父の声は嘲りを含んでいた。私を引き取って一月した頃、お前と血が繋がっている割につまらなかった、と笑って言った養父はとても嬉しそうだった。私がへぇ、とだけ返すと、その顔は途端に複雑そうなものになったが。

「ずるいよなぁ」
「え?」

 逞しい腕で私を抱き上げて膝の上に乗せ、憎々しげな声音で、養父は独白した。

「あんなにつまらない奴、本当だったら視界にも入れない紫乃が。覚えてるのは、あれが父親だからだろう。父親ってだけで。ずるいよなぁ。俺が紫乃の視界に入るのにどんだけ苦労したと思ってんだか」

 キッチンとトイレを別にすればこの家で唯一の洋室、居間にある革張りのソファは養父の体格に合わせて大きい。そのソファいっぱいに足を投げ出して、養父はごろりと横たわった。一緒に倒れた私は養父の胸板にうつぶせて笑っている。

「嫉妬。似合わないよ…」
「黙れ」

 不機嫌そうな声音は照れ隠しだ。本当に不機嫌なら部下を呼びだして八つ当たりするか、仕事で鬱憤晴らしをする。どちらにしろ私に怒りを向けることは無い。それが解るくらいには付き合いが長く、家族だった。普通の家族がどんなものか私は知らないが、この関係に文句は無い。

「今は覚えてるし、視界にも入ってるのに、駄目なの?」
「今は当たり前だ。父親なんだから」

 背中にまわされた腕の力が増す。世情に逆らってクーラーをガンガンに効かせたこの部屋は少し寒いくらいだから、体温が丁度良い。
 このまま眠りそうだ。目を細めると、ガラスのローテーブルの上で携帯電話が鳴りだした。
 腕だけ伸ばして電話に出ると、養父の部下だった。

「…何ですか?」
『ああ、お嬢さん。仕事で問題が発生しまして、ヤスさんに変わってもらって良いですか?』
「はい」

 携帯電話を養父の耳元に当ててやると、嫌そうに顔を歪められた。私だって嫌だ。
 みるみる機嫌が悪くなっていくが、此処で離れるともっと不機嫌になるのは目に見えている。仕事の話なんて耳に入れていませんよというアピールの為に腹の上でもそもそと動き丸くなる。

「行くの?」
「ああ」
「ふーん」

 上半身を起こそうとする養父の顔をじっと見ると、苦笑して頭を撫でられる。
 気持ちいいので、今日は二人でのんびりする約束を破られても許そうと思う。でも退いてはやらん。退けというなら自分で退かせ。

「…一緒に行くか?」
「行く」

 訴えかけるように見詰めていたら、養父の仕事を見学することになった。でも養父は、初めからそのつもりだったのかもしれない。


***


 人が這い蹲る姿を見慣れてしまった私は、やっぱり最低な人間かなぁ。
 あの人の血というよりは、養父の教育の成果という気もする。

「待ってくれ、俺にも娘がいるんだ…!」

 溺れる者は藁をも掴む、というのは違うのかもしれないけれど、そのくらい必死な表情で、這い蹲る男は私に手を伸ばした。傍らに立つ養父の部下に蹴り飛ばされて、伸ばした腕は養父に踏みにじられたから、私にその手は届かなかったけれど。
 助けてくれと縋るような目で、ずっと私を見ている。
 こんな目で。
 私の実父だというあの男も、その場に私が居たなら縋って来たのだろうか。コンクリートの床で無様な姿を晒しながら。自分から切り捨てた、一度しか面識のない娘に?
 既視感を覚えたのは、耳に焼き付く「施設へでも行け」というあの声と、この男の声が似ているからかもしれない。きっとあの男に助けを求められても、私は助けなかっただろう。そしてあの男に失望されただろう。勝手に捨てて、勝手に縋って、助けてくれないと解れば勝手に失望して。そのときあの男が憎むのは、養父なのか、養父の部下なのか、自分を騙した同僚なのか、それとも私なのか。
 今更考えても仕方が無いことだが、今この目の前に、あの男と重なる男が這い蹲っているから。
 ――一歩、踏み出した。
 怪訝そうに眉尻を上げて、養父が此方を見ると、転がる男を痛めつける手や足が止まった。野生動物のようだ、と少し笑った。常に群れのボスの動向を窺っている。
 這い蹲る男の顔の直ぐ側にしゃがみ込んで、その顔を見ても、あの男に似ているとは思わない。

「おじさん、今一番復讐したい相手は誰?」

 最早意識も朦朧として、聞き取りにくいだろう耳元に唇を近付けて。
 率直に、尋ねてみた。
 まともな言葉を発せられないのか、男は不明瞭に呻きながら私を睨みつけてくる。明らかな怒りの眼差しに、小さく笑って立ち上がった。
 お前が憎いと言わんばかりの目。

「もう良いのか?」

 養父の問い掛けに笑顔で頷いて、私は生臭い倉庫の熱さに顔を顰めた。纏わりついてくるような生臭さに、今になって気付く。

「うん、満足。暑いからコンビニでアイス買ってくる」
「全員分頼む」

 養父が財布を投げて寄越し、片手で受け取った。そのまま倉庫を出て、ふうっと深呼吸する。やっぱり倉庫の中は空気がこもっていたようで、今立っている場所だってお世辞にも清々しいとは言えない筈なのに、大分違うのが解る。

「お嬢さん、俺も行きます」

 後ろから声を掛けて近付いて来たのは、養父の部下の甲田さんだ。私に電話をしてきたのもこの人。

「ん?頼まれた?」
「はい。本当に溺愛されていますね」

 荷物持ち兼護衛だろう。養父は基本的に私を一人で出歩かせないので、誰かついてくるだろうことは解っていた。

「そうだね」

 頷いて、道すがらのビルの脇に紫陽花の茂みを発見する。茶色くなったガクを見て、夏だなぁと強く思う。
 紫陽花は、桜のように美しく散ることは無い。向日葵のように項垂れて枯れることも無い。その姿を遺したまま、色だけが抜けていくのだ。
 美しくは無いが、これはこれで、嫌いじゃない。
 紫陽花は昔住んでいたアパートの側にも生えていて、枯れたそれを見て「お前みたいだな」と養父が笑ったのを覚えているから。
 色が抜け落ちてもそこに在る紫陽花と。感情を無くしてもそこに居た私と。似ていると言った男の名前を、そのときにやっと認識した。

「…あの人のアイスは、グレープのやつにしよう」

 紫色が似合うから。

「“お父さん”でしょう。そろそろ呼んであげないと、ヤスさんも拗ねますよ」

 苦笑した甲田さんに、首を傾げた。

「なにあの人、お父さんって呼んでほしがってたの?」

 そんなものよりずっと好きなのに、何の文句が有るのだろう。そもそも父親らしい父親を知らない私に呼ばれて嬉しいものなのか。
 ――這い蹲る男の憎むものは、自分を陥れた全てと、自分を救わない全てだった。
 勿論、私、含む。
 希望なんて何処にも無いような顔をして、あの瞬間、あの男の心に妻や子が在ったようには思えなかった。だから満足した。血の繋がりなんて所詮そんなもので、そんなに脆いものなら私に必要とは限らない。素直に養父を慕っていれば問題無いのだと。

「お嬢さんは、家族ってもんに鈍すぎますよ」
「ええー?」
「えーじゃありません」

 甲田さんは頭が痛いと溜息を吐いた。
 仕方が無いだろう。家族愛なんてものとは無縁の場所で生きてきて、養父の溺愛を正しく家族愛だとは判断できなかった。やたらと密度の濃い感情を向けられているのは解ったが、それがどういう質のものなのか。

「あれが家族愛かぁ…」

 普通にキスされるし、監禁されるし、外に出ているときは監視されているけれど、普通の家庭でもそういうことは有るのだろうか。ただ外で言いふらすことでも無いから言わないだけということか。

「一緒にお風呂って、何歳まで入るものなんだろう…」
「えっ」
「え?」

 隣を歩く甲田さんを見上げた。

「…一緒に入浴してらっしゃるんですか?」
「何かおかしいの?」

 首を傾げる。養父のあれが家族愛なら、それは家族としておかしなことでは無いのだろう。

「……いえ、何もおかしくありませんよ、紫乃さん」

 にっこりと、甲田さんが笑った。私をお嬢さんと呼ぶのは止めたらしい。

「紫の上は男のロマンですから」

 どうしていきなり源氏物語の登場人物が話題に上ったのか、頭を悩ませているうちにコンビニに辿りついた。
 養父にグレープ、私にソーダ、それ以外にも色々と買って、私は行儀悪く棒アイスを舐めながら歩いた。
 暑くて人間の私も枯れそうな、真夏日。
 陰惨な倉庫の中を思うには難しいまでの、真っ青な夏空。

「ただいま」

 帰りにまた紫陽花の茂みを見た。家の庭にも植えて欲しいと頼んでみよう。きっと了承してくれる。
 それから、聞いてみよう。
 私は今でも枯れた紫陽花に似ているかと。

「おかえり」

 財布とアイスを渡すと、養父は私の頭を撫でた。
 コンクリートの床には血痕だけが残っている。少し目を離した間に、あの男は処理されたらしい。

「枯れた紫陽花を見たよ、パパ」

 血痕から目を逸らして養父を見ると、凶悪な笑みを向けられた。これは相当喜んでいる顔だ。

「なんだ、おねだりか」

 ――何かを失敗した気がした。





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