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花落ちて朽ちず
落ちた椿の花のこと、其の壱



 突然だった。
 椿の花の咲き誇ったまま落ちるように、傍目にも前兆など感じられなかっただろう。

 木崎蛍子は、元々この世界の人間ではなかった。
 彼女は死んだ筈だった。十六歳の春、高校からの下校途中、突っ込んできたトラックと電柱の間に挟まれて死んだのだ。直ぐに視界が真っ暗になって、次に目を開けると知らない部屋に居た。田舎の祖父母の家と同じ畳敷きの部屋は、隅に置かれた竹製の長櫃といい鏡台といい文机といい、徹底して現代的なものを排していた。照明すら電燈ではなく、色硝子の球形のシェードの内側に蝋燭を灯す形になっている。モダンで繊細なつくりのそれは嫌いでは無かったが、どうにも木崎の感覚からすると普段使いのものと思えず、現実だという手応えが消えていくばかりだ。
 病院では無い。馴染んだ我が家でも無い。では何処だろう? ぐるりと部屋を見渡してから視界に違和感を覚え、ふと行儀よく掛け布団の上に揃えられた手を見下ろせば、ひやりと心臓が冷えて首筋に怖気が走った。

 稚い子どもの手だった。
 柔らかで滑らかな肌、短い指、小さな桃色の爪。どれも木崎が既に失くした筈のものだ。日射しを遮る影となって頬を滑る黒髪も、記憶より随分と長い。
 気持ち悪い。
 知らない身体を動かしている事実に吐き気がする。暖かな布団を跳ねのけて立ち上がると、木崎は自分が浴衣を身に付けていることに気付いた。
 急に立ち上がったからか目が眩み、ふらふらとおぼつかない足取りで鏡台に近付く。
 鏡を覗き込めば、彼女はますます混乱した。映っていたのは確かに自分の顔だったのである。四歳か五歳か、そのくらいの年頃の、アルバムに残されていた自分の顔に相違無い。
 わけがわからない。
 混乱の只中に居る木崎の背後で、襖が開いた。

「アア! 蛍子さん、目が覚めたのね!!」



 結論から言えば、それは叔母の声だった。叔母の説明によれば、木崎蛍子は家族で事故に巻き込まれ、奇跡的に一命を取り留めたのだ。然し木崎は安静にしていろと寝かしつけられた布団の中で、きっとこの身体の持ち主だった木崎蛍子も死んでしまったのだろうと考える。
 自分が死に、同時に木崎蛍子も死んだ。けれど私の魂は、何故かこの身体に入ってしまったのだ。もしかしたら木崎蛍子は私の身体に入って、向こうでも一命を取り留めているのかもしれない。そうだったら良いのにと思いながら、木崎はその可能性が殆ど絶望的であるということを認めた。撥ねられただけでなく、押し潰されたのだ。即死だろう。
 この身体を受け入れるしか無いのかと、木崎は溜息を吐く。状況を甘受することは彼女の得意とするところとはいえ、今回ばかりは長く葛藤に苛まれそうだった。叔母とその夫、また歳上の従兄たちは彼女の鬱々とした様子に辟易するでもなく家族を亡くした故と判断して、努めて明るく暖かく接してくれた。お前はおれの妹であると宣言した従兄に木崎は笑い、けれどどこかで信じ切れず、異物故に常識から外れてはいけないと積極的に本を読み学んだ。
 二月ばかり過保護に扱われ、漸く医師から問題なしと診断を受け、体力を回復させるべく叔母に手を引かれ散歩に出たのが夏。庭のタチアオイが赤紫と青の花を咲かせた時期だ。
 一歩家から外に出て、木崎はその日のうちに自分が異世界に居ることを受け止めた。
 家の中しか見て来なかった木崎にとって、外は刺激的だった。
 見上げた青空に幾本もの透明な支柱が伸びて、時折虹色の光を放つ。街の一番隅まで来ると、木崎はこの国の街の一つ一つが鳥籠と称されることを納得した。
 大地は円形に切り取られ、街の端からは眼下に雲海が見える。
 この街は空に浮かび、不可視の籠に守られているのだ。アクリル板のような透明な支柱を撫で、下界を見下ろし、ぺたりとその場に座り込む。
 本で読むのとは違う、元の世界では非常識な現実に触れて、木崎はもうどうにもならないことを思い知った。

「まあ! 疲れちゃったのかしら? いきなり歩きすぎたのかもしれないわね。」

 涙も出ない。
 木崎は心配げな叔母に困ったように笑い掛けて、頷いた。

「うん、疲れた。」

 そうして落ちた花の徐々に腐るように、彼女の心は膿んでいった。





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あきゅろす。
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