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花落ちて朽ちず
雨女と晴れ男のこと、其の弐



 ――いと、お、しい…、

 啜り泣くような、縋るような、か細い声は不思議とはっきり耳に届く。
 日村はその声を追っていた。
 彼が見た限り、此処数日、校内に響き渡るその声に気付いている様子なのは自分だけだ。普通に考えれば幻聴で、これは幻聴なのだろうと彼自身納得している。
 だが気になってたまらないのだ。この声が聞こえるようになったのは連日の雨の始まりの日で、この切ない声と長雨とには何か関係が有るのではないかと、馬鹿げた空想じみた考えすら沸き起こってしまっている。

「…ちっ、」

 舌打ちが漏れる。
 雨のせいで部活も、室内練習ばかりになっている。室内練習がいけないということは無いが、やはり景観の変わらない室内で延々と基礎練習をし続けるのは気分が滅入る。
 あと探していないのは、裏の林か。苛立ちの滲み出る足取りで土の地面を踏み荒らし、木造の校舎の裏手に回る。
 然し林の入り口には立ち入り禁止の柵が設置されていた。なんでもあの林には、外つ国から仕入れたは良いものの凶暴すぎて手に負えず逃がされた妖が多く棲んでいるという。雨に濡れた鉄柵を乗り越えるのは、流石に危険だろうか。
 もしかしたら無駄足になるかもしれないと思いながら訪れた裏庭の鉄柵には一部隙間が有って、予想を裏切り簡単にすり抜けることが出来た。拍子抜けして、雨に濡れながらも歩を進める。分かってはいたが何処までも似たような木が生えているだけの林には、陰気な雰囲気が漂っている。
 本当に、此処に妖がいるのだろうか。大概の居住可能区域が空に浮かぶ籠の中にある東湖国内に限っては妖が駆逐されて久しく、国を出たことが無い日村は当然だが、今まで書物以外では妖に縁も無く過ごしてきた。彼は不謹慎にも、未知のものとの出遭いへの期待に気分が昂揚してくるのを感じた。そして。

 ――…おしぃ…、

 耳元で囁かれたかのようにも感じる掠れた声。

 ――いとおし、い…。

 啜り泣くような、縋るような、苛立ったような、どんよりと歪んだ、声。
 長い黒髪、水色の蛇の目傘、薄桃色の洋服。ワンピィスというのだと、姉が自慢していたのと同じ型の洋服だ。抜けるように白い膚は、雨の中に在るせいか、いっそ青ざめて見える。
 どうみても生徒ではないその女から、目が離せない。

「――っ、」

 ひゅっ、と掠れた息が喉から出て、瞬間視界が無明に落ちる。どうしたら、どうすれば。逃げなくては。でも、気付かれる。
 混乱する思考に終止符を打ったのは、啜り泣く声とは別の静かな声だった。

「声を出してはいけないよ。」

 どこまでも柔らかく穏やかで、優しいのか冷たいのかも解らないような不思議な声が耳に届き、冷静さを取り戻す。
 瞼の上に感じた温度で、視界を覆ったそれが誰かの手だと気付いた。だから前が見えないのだと納得して、これは守るための暗闇だと安堵した。

「あれを見てはいけないよ。」

 言い聞かせるような声に、自ら目を閉じる。
 そう、あれは、“危険”だ。本能が教えてくれたそれを信じる。
 ふぅふぅと獣のように荒くなる呼吸を整えて、なるべくゆっくりと息を吐く。背中にある体温が日村を安心させた。
 暫くそのままじっとしていると、唐突に視界に光が戻った。蛇の目傘の女の姿はもう見えない。離れていく体温を名残惜しく思うのは、きっと“あれ”に恐怖していたからだ。
 振り返ると、あの女とは別の女が立っていた。見覚えが無いから同学年の線は除外して、年下に思えないから、恐らく三年生の女子だ。日村に目隠しをしていたのは彼女だろう。

「……今のは何ですか。」

 その姿を視界に入れると、警戒心が戻ってくる。

「雨女だよ。」

 彼女は微笑む。
 なんとも形容し難い、それこそ妖のような掴みどころのない微笑だ。

「愛おしい人を探しているんだ。」

 羨ましげな声に、雨女に対する悪意は感じられない。

「害は、無いんですね。」
「ああ。君は少し危なかったけどね。」

 事も無げに言われて息を呑む。

「あれは向こう側の存在――“歪み”なんだ。長い時間見ていたら、君自身が歪んでしまう。」

 “歪む”。あれは歪んでいるのか。

「ほら、今気分が悪くないか? 顔色が悪いよ。」
「ああ……、興奮しているからかと思っていました。でもあれは妖じゃなかったんですね。」

 指摘されて初めて、日村はくらくらと脳が揺れる感覚に気付く。体調は良くない。この感覚が“歪み”だと聞くと、確かにその表現は正しい気がした。

「興奮? 君は妖が好きなの?」
「はい。」
「なるほどね、分かった。日村隼人くんだろう。」

 眇めた瞳で言い当てられて驚く。何故俺の名前を知っているのだろう。日村は自分が一部の女子の間で人気があるのを煩わしさと共に知っていたが、目の前の彼女はそういった女子とは別の生き物のように見える。
 尋ねる前に、答えは手に入った。

「部活で陸上競技をやるよね?」
「はい。」
「滝から聞いたことがある。」
「……ああ、」

 納得してしまった。滝というのは、日村がよくしてもらっている先輩の名前だ。
 穏やかに微笑む滝先輩と、この静かな先輩の目に宿る光とが、とてもよく似ている気がした。並んで立つ姿は誂えたように違和感なく、ぴったりと填まって見えるのだろうということが、容易に想像できる。きっと仲が良いのだろう。
 滝と似た穏やかな微笑を浮かべ、女生徒は言う。

「まじないをしたから、明日にはきっと晴れるよ。」

 きょとんと目を見開く日村に噴き出すのを堪え、片手で口元を隠しながら彼女はこう締め括る。

「久方振りの部活を楽しむと良い。」



 そうして翌日の朝、日村は少し信じられないような気分で、真っ青に澄み切った空を見上げる。国営気象魔術協会の伝言板によると、昨晩の強風が雨雲を薙ぎ払ってくれたらしい。

「おはよう日村。」

 走り高跳びのハードルを抱えて、体育倉庫の方からやって来たのは、昨日出会った女の先輩の話に出てきた滝冬幸だった。

「おはようございます。早いですね。」

 他の先輩方は来ていない。最近は誰も天気予報を当てにしていなかったこともあって、不意打ちのような青天にしっかり反応したのは、顧問含めて日村と滝だけのようだ。

「ああ。俺は今日晴れるって聞いていたからね。」
「俺も『まじないをしたから明日は晴れる』と言われて。先輩の友人だと名乗っていましたが。」

 日村の言葉に少し考え込んで、滝は質問した。

「……美人だった?」
「そうですね。」

 どんなに悪意を込めても不器量とは言えない。その点日村は正直な男である。
 あっさりとした肯定に、滝は今日の天気のように晴れやかな笑みを見せる。

「それは俺の親友だよ。」

 その後淡々と練習を済ませ、二人は別々の教室に向かう。
 滝が予鈴の直後に滑り込んだ教室ではいつも通り、窓際の席で彼の親友が教科書を読んでいた。そういえば今日は羅波語の試験があった。





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あきゅろす。
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