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花落ちて朽ちず
黒い影のこと、其の壱



 見られている。
 それだけならば珍しく無かった。光城学園でも役職付きの女生徒は少ないし、容色に優れた頼子に憧れる男子生徒もいる。だから視線に関しては、ちっとも気にしていなかった。
 気になるようになったのは、足音に気付いてからだ。
 ひたひたと、足音がするのだ。自分が一人で歩いているときだけ、その足音が聞こえる。ずっと付き纏っていた視線の主が時折、存在を主張するように足音を鳴らすのだと気付いてから、視線さえも怖くなった。
 振り返るのが怖くなった。

「朝倉。」

 びくりと肩が揺れる。

「――おい朝倉、どうした?」

 不機嫌を増した声が知り合いのものだと気付いて恐る恐る振り向けば、それは間違いなく、よく見知った顔だった。

「おはようございます、委員長。」

 ほっと小さく息を吐き、頼子は笑う。
 風紀委員長である千堂景将は内心眉根を寄せて頼子を見た。
 下手な隠し事は気に入らない。ましてや自分の下につく人間が、追い詰められて、それでも自分を頼らないなど、気に食わないにも程がある。しかし朝倉頼子は隠したがっている。女生徒の秘密を無理に暴こうとするなど、悪漢の振る舞いである。

「委員長、何かありましたか?」
「ああ、前回の風紀検査の統計だが。」
「それなら委員会室の方の委員長の机に置いておきましたよ。」

 にこりと、柔らかく頼子は微笑む。
 千堂は「そうか。」と頷いて、そのまま気付かなかったふりをすることにした。個人の問題だ。悪戯に他人の心を暴く事は許されないと、その程度の常識は弁えている。距離感も掴めずに、他人と交わることなど出来ない。
 ひたり。
 唐突な真後ろの裸足の足音に、頼子はまた悲鳴を飲み込んだ。そして。

 何かが倒れる音に振り向いて、千堂は顔色を変える。頼子の艶やかな黒髪が、磨かれた床に広がっていた。ふと裸足の足音が聞こえた気がして辺りを見回すが、そこには自分自身と、倒れ伏した朝倉頼子の姿しか見えなかった。



「朝倉さんが倒れたらしいわよ。」
「えっ、大丈夫なの?」
「さぁ……どうしたのかしら。」

 教室のざわめきに静かに耳を傾けながら、木崎は小さく溜息を吐く。廊下の足跡は日々濃さを増して、そろそろだろうとは思っていたのだ。
 ――朝倉頼子。風紀委員会副委員長。人当たりが良く淑やかな、良家の子女という言葉から連想する少女の姿にぴったり当て嵌る、可愛らしい女子生徒である。仰々しい肩書を持っているが、それに恥じぬ才女だというのは“あの”風紀委員長の側で微笑んでいられるという点で確かだ。

「木崎。」

 ふいに耳に入った呼び声が、彼女は負の方向へ陥りがちな思考を引き上げた。

「何かな、滝。」

 穏やかに声を掛けてくる親友に、同じように返しながら、木崎は微笑む。

「何かあった?」

 滝はただ不思議そうに首を傾げている。
 彼には隠し事が出来ないし、それは無意味だ。だから木崎は隠さない。

「少し、気に掛かることがね。」

 少し。ほんの少しだけ気に掛からなくもないような、けれどそれは無視できる範囲内のこと。何せ朝倉頼子に付き纏う黒い影には、随分前から気付いていて、今まで無視していたのだから。

 それは雨女が現れて直ぐのこと。ざあざあと降りしきる雨の中、そろそろ壊れそうな藤色の唐傘をさして、いつもの道を学び舎へと急ぐ朝。
 通学路の景色に物足りなさを感じて、彼女は内心で首を傾げた。確かに何かが欠けているのだけれど、何が欠けているのかは解らない。
 解らないということは大した事では無いのだろう。思考を切り替えながら歩を進めて、思い至る。
 “歪み”が、閉じている。
 石の塀の間にあったいびつな空間は、正常に取って代わっていた。

「あぁ……、」

 彼女は小さく溜息を吐いた。入り口が閉じたのは向こう側の存在が此方に来たからなのだろうと、理解できてしまう自分の眼が恨めしい。一人で出たのか誰かに憑いていったのかは知らないが、もし後者ならば憑かれた人間は――……。
 自分の目の届かないところで起きた、どうしようもないことだった。それでもやはり気分の良いものでは無く、少々の憂鬱さを感じた。
 常人には見えないだろう黒い足跡は、歪みの痕跡。誰も居ない通学路を歩く、彼女の朝は早い。校門に入り、教室へ向かう間、廊下で誰かと擦れ違うこともなく、それでも校内を進むにつれて心が重みを増していく。視界にちらつく“歪み”の痕跡がそうさせるのだ。誰もいない教室に入って、彼女は再び深い溜息を吐く。
 黒い足跡は、隣の教室まで続いていた。誰が“歪み”に出会ったのか、その時点では判断できなかったが、隣の組と合同で行う女子だけの和裁の授業でわかった。
 一目見てそうと解る強い執着を覗かせる視線のおぞましさに、他者より慣れてはいても内心ぎょっとしたものだ。

 深海魚のようなぎょろりとした黄色い目で、黒い影は、朝倉頼子を見詰めていた。





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