人の手の入らないありのままの姿を見せ付ける森は、不慣れな者をたちまち呑みこんでしまうだろう。
ルーシェはふと顔を上げた。左右の耳に手を寄せて、さわさわと揺れる葉の音に聞き入った。
いつもと違う気がするのは気のせいか。
声が聴こえた。誰かが囁いている。
これは森の声か。それとも人の声か。判断がつかず、ルーシェは目を閉じる。
あなたは誰? もっと声を聞かせて。
「ためいきをついてる、優しい声の男の人?」
森が告げる。道に迷った人間の存在を。
「噂の……人――それってもしかして、主任司祭様かな?」
姿は分からないと風が囁く。触れることや聞くことはできても、見ることができないことは知っていた。
「どの辺りなのか分かる? でも、お迎えはムリかもしれない……」
森には今魔物が徘徊している。今以上の危険にわざわざ足を踏み込むつもりはなかった。
もしもこの場所に魔物が現れたらと思うと、背筋がこわばる。
すでに危険な状態にいることは承知していた。制止を振り切りここまで来たのは、やはり特別な存在があったからだ。
青々と茂る葉の色と、小さな白いはなびら。見ているだけで心が洗われる気がする。
ルーシェは一度大きく息を吸うと、目を閉じて、ふたたび森に耳を向けた。
ほんの小さな音さえも集めるように、意識を集中して声を聞き拾う。
旅人の話題。動物の話題。魔物の話題。あらゆる会話が聞こえてくる。
噂の人の名は出ないのだろうか。
(ダメ……聞こえない……)
名前が出てこないとなると、彼は一人でこちらに向かっていると考えてもいいのだろうか。
目を開けると周囲を見渡す。せめて瞳を持った者が来てくれれば、彼の容姿と名前が分かるのに。
願った途端、ガサリと草をかきわけて覗いた黒い瞳。キョトンとした顔でこちらを見て、小首を傾げた。
まだ子どもの野うさぎだった。親離れした直後らしく、まだ身体も小さければ人に対する警戒心が強い。
探るように凝視する丸い瞳はどこか怯えているように見えた。
「だいじょうぶ。ね、だいじょうぶだから」
片手を差し出して、地面を叩いた。
「おいで。なにもしないよ」
やさしく招いてルーシェは微笑んだ。うさぎはおそるおそる近付いてくる。