偽人語り
噂
ねぇ、『いつひとさん』って知ってる?
誰にも見つからずに並盛神社の裏手にある池を、夜中の十二時に覗きこむと『理想の自分』が見えるんだって!
それが『いつひとさん』なの!
ずっと見ていると、『いつひとさん』は覗き込んでいる自分に気付いて手を伸ばしてくるんだってさ!
∞∞∞
そんな女学生の噂を聞いて、夜中、並盛神社の裏手にある池に立ち尽くしていた。
最近は、その噂をよく聞いているのに誰も居なかった。
下らないと思いながら、彼女達の話を最後まで聞かずに店を出た。昼休みも終わってしまうから、その前に仕事場へ戻るために。
しかし最近失敗続きの自分には、つい惹かれるものがあった。
『理想の自分』。
仕事も出来て、家族に優しい。
あわよくば、出世して、喫煙を控えられる用にしたい。
もうすぐ新しい命がやってくるのだ。その子のために止めようと決意してはいるのだが、上手くいかない。
腕時計を覗き込んで見ればもうすぐ12時になる。
それにしても、覗き込むなんてどうすれば良いのだろう。12時丁度に覗き込むのか?それとも、その前から覗いてても良いのだろうか。
そう考えながらじっと池を見ていると…───突然、水面が揺れた。
風が吹いている訳でもない、水面が何かが落ちたわけでもない。
もしかして!
時計をまた見てみれば、12時を数秒超えていた。
―うふふっ…―
一枚壁を隔てたようにくぐもった、妻の笑う声がした。
内臓が一瞬の内に冷える。
池に顔を向けて…───自分の目を疑った。
目の前に、自分と、妻と、生まれたての赤子が見えたのだ。
池に、『映って』いる。
「な…ぁ…────」
言葉に、ならなかった。
更に景色は遷り仕事場が現れる。すると、上司が肩をぽんっと叩いてくる。
―今回の交渉!とても良かった!相手からも評判が良くってなぁ!またこれからも君に頼むよ!―
いつも怖い上司が豪快に笑ってくれた。
勿論です、なんて自分も自身満々に笑って答える。
更に、次々と水面には理想的な自分が映り込む。
最後は社長にまでなっていた。
『成りたい自分』に、なっていた。
―ん?―
すると、『自分』は自分に気付いたらしい。
―何しょげた顔してんだよ。ほぉら?元気出せって!―
手を、差し伸べて来る。
―一緒に社長になろうぜ?家族、幸せにしてやりたいんだろ?手伝ってやるよ―
「え…?」
耳を、疑った。
『自分』は、手を伸ばしたまま。
―まずは立ち上がり方からだ。いつまでも座ってたって何も出来ないし、前に進めねぇよ。父ちゃんになるんだろ?―
ごくり、と喉が鳴った。
水面に映っている手に、自分の手も伸ばす。
水面に触れる、ぎりぎりで。手を止めた。
馬鹿か自分は。
伸ばしたって、相手は水だ。それに立ち上がるのは自分だけでも出来る。
そう思った瞬間
『自分』がにやりと笑った。
「え…────」
手首に濡れた冷たい何かが巻き付いた。
水面、から…───こちらに、飛び出す、ように。
『手』が。
∞∞∞
でも、『いつひとさん』に絶対手を伸ばしちゃ駄目。
手と手が重なり合うと、『いつひとさん』が出てきちゃうんだってさぁ!
え?その後?
知らないよぉ、噂だもん!
それに嘘臭いじゃん?
だって、『その池の水』を汲んで洗面器に張っても『いつひとさん』は見えるらしいよ?
馬鹿らしいよね〜?
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