sweet temptation like a box of chocolate<甘い誘惑> 2 事務所には表の入り口の他に、奥へと通じる扉があった。 扉を開けると大きなパティシエさん達の作業場があり、そこをガラスで隔てて売り場があるようだ。 作業している姿がお客様から見える仕様らしい。見える部分は全てではなく一部で、水周りなどは隠してある。あくまでも綺麗な所だけを見てもらうようだ。 尊さんがキッチンに入ると皆が作業を止めて一斉に頭を下げる。 「「「お疲れ様です!」」」 「おう、お疲れさん。皆頭を上げてくれ」 少し後ろにいた俺を手招きして横に並ぶように呼ぶ。 「ほら、自己紹介しろ」 「は、はい!吉岡 翔です。フジ製菓専門学校二年で、今日からアルバイトでお世話になります、よろしくお願いします!」 ぺこりと頭を下げると、色々な声が聞こえた。 「お、元気だねぇ」 「可愛い!」 「頑張れ〜」 などなど。いい人達のようで安心した。 「緒方さーん、昨日フジに講師で行ってましたよね。ナンパしたんですか?」 「そんなとこだ。川口、虐めてやるなよ」 「げっ、否定しないよあの人!皆聞いたか」 「翔、あのうるさいのうちの二番手で川口だ」 「よろしくお願いします」 「よろしくね、川口 総司 (かわぐち そうじ)35歳です。気持ちは20代です!仲良くしてね」 ウインク付きで自己紹介する彼はいかにもお調子者といった感じだが、ナンバー2というくらいなのだから仕事はできるんだろう。 「後は右から、高橋、山田、今村、沢口、本田だ。今いないやつらを合わせるとここのキッチンだけで10人いるから、一気に覚えるのは無理だろう。分からなかったら適当に山田って呼んどけ」 「ひどいっす!」 本物の山田が叫ぶ。 「覚えられるよう頑張ります」 「翔ちゃんいい子だ」 「鬼とは違うね」 「かわいいなぁ」 「...まぁ皆いい奴だから、分からないことは聞いたらいいから」 んじゃ売り場に行くぞ、と先に進んでしまう。 「では失礼します」 もう一度頭を下げて、小走りでついて行く。 「緒方さん、名前呼び捨てにしてたね」 「どういう関係なんだろうな」 「マジでナンパしたとか?」 「でもバイトを自分で連れてくるとか初めてじゃない?」 「今度翔ちゃんに聞いてみるか...」 「鬼のいぬ間にな...」 そんな会話がいなくなった後に交わされていた事などもちろん知らない翔であった。 キッチンが覗けるガラス窓のすぐ隣にはスライド式のドアがあり、店へと続いている。 扉を抜けると平日にも関わらず、2〜30人のお客さんがいた。 従業員の背中側を頭を低くして通り、一番奥のスペースまで連れていかれる。どうやら包装用のリボンや箱、その他必要な物の収納スペース兼ちょっとした休憩所のようだ。 「三輪さん、ちょっといい?」 尊さんは中にいた人に声をかけた。 「はい」 三輪さんと呼ばれたのは20代前半の女性だ。 「こいつ今度販売のバイトに入るんだけど、明日から三輪さんが指導してやってくれる?」 「わかりました」 「吉岡 翔です。よろしくお願いします!」 「三輪 静香 (みわ しずか )です。よろしく。吉岡くん、申し訳ないんだけど声が大きいのでもう少し落として下さいます?」 「...すいません」 冷静に注意されて思わずしゅんとする。 なんかこの人怖いかも...。 「後の皆は今忙しそうだから、また明日自己紹介すればいいから」 明らかに忙しそうな雰囲気に声を掛けられる訳はなかった。 きっと今尊さんが店に出てしまうとやれサインをくれだ写真を撮ってくれだのと騒ぎになる事は予想されるので大人しく従う。 そこから一応売り場は見えるので作業している従業員達を見て、「明日からアレをやってもらうから」と言われた。 平日ですら誰一人動きが止まる事はない。 今からすでに不安で一杯になってくる。 「じゃ事務所に帰るぞ。三輪さん休憩邪魔して悪いね」 「いえ、とんでもないです」 「明日からよろしくお願いします!」 「...声。」 「...すいません」 シュンとなった俺は、首根っこを掴まれ強制的に退去させられた。 ...俺は猫かい。 元のルートを通るもんだから、もちろんパティシエの人達の注目も浴びるわけで。 「結局翔ちゃんはペットなんかね?」 「ナンパじゃなくて拾った系?」 「なんかそんなマンガあったよな」 「まさか緒方さん...調きょ、グハっ!」 「アホか、あの人は鬼ではあるけど鬼畜ではないはずだ...たぶん」 そのまま通り過ぎる尊さんは完全に無視だ。 ちなみに最後に思いっきり突っ込まれたのが山田さんで、突っ込んだのが川口さんだ。この二人だけは確実に覚えた。 「お疲れさんでっす!」 通りすがりでも一応挨拶は常識だからね。これだからゆとり世代は、なんて言われないようにね。 「「「お疲れさん、また明日〜」」」 うん。うまくやっていけそう。 パタンと事務所側から扉を閉じる。 「いい奴らばっかりだろ?」 「はい、なんかうまくやっていけそうな気がしてきました」 「バイト経験はあった方絶対いいと思うし、少々辛くても卒業まで頑張れよな」 「うす、頑張ります」 「よし。俺はやる気の無いやつを雇うほど金持ちじゃねぇから、やる気だけは無くすな。それだけあれば他はあとから付いてくるから」 「っはい!」 「元気でよろしい。じゃあ気をつけて帰れよ」 「はい、今日はお世話になりました。また明日からよろしくお願いします」 90度にお辞儀をしてから置かせてもらっていたジャケットを羽織る。バイクは寒いからね。 「あ、そうそう。これお母さんにあげといて。甘いもの嫌いじゃないだろう?」 差し出されたのはギフト用っぽい可愛らしい焼き菓子のセットだった。 「え?もらえないっす」 「いいから。どうせあと三日で賞味期限がくるから、早めに食べてもらえ」 なるほど、そういうことか。 「じゃあ遠慮なく頂きます。ではこれで失礼します」 「おう、事故んなよ」 扉の所で再度頭を下げてから外に出と、外はもう日が暮れ始めていた。 リュックに貰ったお菓子をそっと仕舞ってからバイクのエンジンをかける。 店は学校と家の間にある。とはいえほとんど学校から離れていないので、家までは45分くらいだ。 でも学校からの通学ルートとは違って、この住宅地を抜けると大きな幹線道路をしばらく走らなければいけないのでのんびり気持ちよく運転とはいかないのが残念だ。まあ大きな道は明るいので夜道だから危ないというわけでもないし、交通量も通勤ラッシュと深夜のトラックを除けばそこまで多くないので、混む事も少ない。 今から帰れば7時半には着くだろう。 モンキーに跨ってアクセルを踏むと、軽快に走り出す。 ........あ。 「明日提出の課題忘れてた!」 ...うわ、一気にトーンダウン。まあ、間に合わなけりゃ水無瀬に土下座するか。 [*前へ][次へ#] [戻る] |