秋冬春夏(完結)
15
かくして、石原いわく店長さんちに行く日、がやってきた。
石原としては特別な日だったはずが、純にとっては普通らしく、いつも通り掃除を始めた。特に念入りにするわけでもない。
「洗濯は?」
いつもならあれこれ洗う休日だが、タオル類しか洗わなかったのでキヨカズが聞くと、妙に近づいてから答えてくれた。
「パンツ干してあるのもどうかと思うでしょ」
全くもって同感だったので、特に返事もしなかった。返事の代わりにキスをする。
「お客さんがいたらできないから、もう一回」
純にせがまれ、二回三回と繰り返す。
「居てもできるんじゃないの?」
「勘弁してよ」
前に一度目の前でしたことがあったが、それはもう御免被りたかった。
「さて」
パンでも焼くか。
朝方台所で何かしていた純の姿を思い出し、合点が行く。あれはパンの準備だったのだ。
「そこからやんのか」
いくら手料理が食べたいと言われたとはいえ、パンから作るとは。恋人のマメさには恐れ入る。
「ご飯がよかった?」
そういう問題ではない。キヨカズは口を出さない代わりに手も出さないことに決めた。
「文字書いてるね」
一応そのように断り、北側の作業部屋に引きこもる。
祖父の頃から付き合いのある古書店から定期的に筆耕を頼まれていて、ちょうど連休でやろうと思っていた。
報酬は大抵古書で、キヨカズの趣味を理解した店主が用意していてくれる。ちょうどいいものがないときは現金だったが。
その伝で、何件か筆耕を頼まれる店があり、都合よく書きたい欲を満たしてくれている。
どんな書体でも構わないと任せてくれる店もあって、時おり冒険で新しいことをしたりする。
自分の店や建物の張り紙とは少し違った楽しみがある。
明かりの入る場所に道具を広げ、依頼主からのメモを眺めた。
意外と難題だ。
大学に入ってから、なんとなく書道サークルに顔を出してみたが、人が合わなかったので入らなかった。
高校の書画部はとにかく居心地がよく、油絵を描いている純のクラスメイトの隣で好き放題文字を書いていた。
地味だがユニークな人物で、文化祭の看板では三年間コラボレーション作品を作っていた。
逆に僕が文字を描くから、飾りの線を引いてよ。
と言われたのは二年のとき。
彼の書いた美しいレタリングを、彼に言われるまま線を引いて飾り付けた。
三年のときは大きな筆で自分でも読めないくらい崩した文字を書いて、顧問に再提出と言われた。彼だけは喜んで、使わないなら持って帰ると本当に持ち帰った。
書をやるのが三年間自分だけだったのでなんとなく浮いてはいたが、楽しかった。
彼は画家になりたいと言っていたが、どうしたかな。
とりあえず、仕事をするか。
気を取り直して指定の文字を書き始める。
古書が相手なので時おり古い文字を書かねばならず、そのときは漢字辞典を開くことになる。
意外と書いている時間より調べたり考えたりする時間が長い。
そうしているうちに時間が過ぎ、純から声が掛かった。
「邪魔してごめんね」
部屋の外から顔を覗かせて、純は守山から連絡があったと言う。
「なにか買っていきますって」
なにがいい?
酒はあるし、食べ物もある。
純も悩んだから聞きに来たのだろう。
「甘いものでも頼む?」
「そうだね」
平坦に返事をし、純は居なくなった。
なんとなく、純、と書いてみる。
書いてみて、意外と難しいことに気がつく。
何回か書いて、納得行くものが出来たので、乾かしてから持って出ていく。
「どう?」
純は眼鏡越しにじっとそれを見て、複雑な顔をした。
「僕ってそんなふうに見えてるの?」
そう聞かれて見返すと、なるほど純のイメージだった。
純、なのに、混沌とした感じ。
墨がはねていて、払いがかすれていて、お世辞にも美しくない。
「そうかも」
苦笑しつつ認める。純は黙ってそれを取り上げた。黙ったまま、冷蔵庫に貼り付ける。
「なかなかいいね」
穏やかに微笑むのを見て、キヨカズは部屋に戻った。
作業が終わって片付け始めた頃、純がまた部屋に来た。
吊るされた作品を眺め、ため息をつく。
「どれもいいなあ」
割りと平坦な筆耕だったが一貫していて、整然とした美しさがあった。
「朱は入れなかったの?」
「今回は目立たせたいやつないみたい」
ふうん。
相づちは冷たいものの、口許は微笑んだままだ。
純が朱を入れなかったのかと言ったのには訳があった。
彼が書いたものはほとんど誰かに頼まれたものなので、自ら保管している作品は皆無に等しい。
先程のように気まぐれで純に渡したものくらいしか、また見ようと思って見れるものはないのだ。
いわく、文字と言うのは本来道具なので、音楽や絵のような絶対的芸術性は持たない。
だから伝えると言う役割を持たない文字は書いても無駄とのことだ。
高校時代の部活動も、どちらかと言うと岩木の風紀委員みたいなものだったようだ。貼り紙や看板、お知らせのプリントを読めるように書く。
ただ、そんな作品のなかに、ひとつだけひどく印象深いものがあった。
学生時代に、今と同じように古書店から頼まれて書いた貼り紙だ。
流れで線を繋ぐ書で、なぜそんなことをしたんだと純はそれをキヨカズを見比べてしまった。本人はけろりとして、やっぱりクレイジーだったな、などと言う。
黒い線と朱い線が、混在していたのだ。
聞くと、たった6文字書くのに何週間もかけて、練習用の新聞紙もこれだけあれば一年はもつなと思っていた量を使いきってしまった。
と言うのは教えてくれたが、そもそもどうして色を分けたのかは教えてくれなかった。
それをもう一度見たいと思うものの、古書店に納めてしまったし練習は捨ててしまった。目に焼き付いた色褪せた記憶しか残っていない。
しばらく作品を眺めていたが、思い出したようにキヨカズを振り返る。
「通りまで迎えにいってくれない?」
守山からのお願いらしい。
キヨカズは手を洗って出ていくことにした。
しばらくして、がやがやと人の気配がし、扉が開く。
ぼんやりとキヨカズの書いた純という文字を眺めていた純は、鍋に向き直る。
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