秋冬春夏(完結)
7
すっかり夜も更けてから、純はキヨカズの店に入った。
「いらっしゃいませ」
いつ聞いても感じがいい。
気持ちがスッと解放されて、体の力が抜ける。
「もう終わりだから、一杯だけね」
「そんな時間でしたか」
そんなに働いていたつもりはなかったが、時計をみると確かにそんな時間だった。
店主が、そんな時間ですよ、と言いながら食器棚を開けた。
もう店にはわずかの客しかいない。みんな常連客だった。
店内を見回し、軽く会釈をする。
扉に近い席に座り、店主の手元を見ると、小さいグラスに氷を入れていた。
「店長、ビールがいいです」
「今から?」
すかさず聞き返され、弱くはいと答えた。
「飲んできたんじゃないの?」
時間が遅いから他で飲んでいたと思われたのだ。
「忙しかったんです」
平坦に返すと、テーブルの常連客が笑った。
「居眠りする暇もなかった?」
確かになかった。
「そうですね」
彼の返事に、相手は満足そうだった。
「そうだ!」
奥にいた若い客が突如立ち上がる。
店主が瓶のビールを出してくれた。
「グラス使いますか?」
「いらないです」
単純にいらなかっただけだが、ありがとうと礼を言われた。洗い物が減ったと言うことだろう。
「久我さん、金曜の夜空いてません?」
立ち上がった若者が、ずるずるとカウンターに沿って移動してきた。
「金曜の夜?」
首を傾げ、即答しない。実際空いてはいるのだが。
それを聞いた店主がカウンターから出てきた。
「石原くん、それだけはやめた方がいいよ」
石原と呼ばれた若者がいた場所を、すかさず片付ける。本当に閉店時間が近いことを実感させた。
「ほんとに困ってるんですよ!」
「いくら困っててもダメ」
珍しく店主が強く出ているので、久我は不思議だった。助けを求めてもう一人の方を見る。
「コンパだって」
彼はそっと教えてくれた。
「4対4で合コンなんですけど、一人ダメになっちゃって」
それで誰か探していると言うわけか。
店主がダメだと言う理由を聞かねばなるまい。久我は話が展開するのを待った。
「この人連れてくと友達を失うから、ダメ」
酷い言われようだが、口は挟まない。
「いいじゃない、色男が居れば盛り上がるんじゃない?」
テーブルの常連客が口を挟んだ。
「この色男、ホントにモテるんだから」
他人に迷惑をかけるくらいにモテる。
店主の言うことに、石原はピンと来ないらしい。不満げに食い下がる。
「社交性なら十分あるじゃないですか」
仕事と思えばいくらでも出せる。営業だからむしろ社交性で仕事していると言ってもいい。
自ら頷いた久我を見て、テーブルの常連客が笑う。
店主はため息をついた。
「だからモテるんだよ」
「いいじゃない、盛り上がって」
エピソードのひとつも披露しなければ納得しない雰囲気だ。店主はもうひとつため息をついて、わかんないかな、とこぼす。
石原のようにちょうどそこにいた久我を合コンに誘った客が何人かいた。さらに、どうしてもと頼まれて店主も参加した例もある。
「ここでは寝てるけど、すごく盛り上げるの上手いんですよ」
話の引き出しが多く、女性の話題にもついていける。さらに新しいものもよく知っている。
かといって男たちを立てないわけではないし、むしろ本気で彼女を作ろうとして参加しているものをさりげなく話題の中心にする。
「完璧じゃない?」
テーブルの常連客が感心したようにコメントしたが、実は彼はことの顛末を知っている。なにしろ常連だから。
「素晴らしい合コンメンバーじゃないですか!」
石原は何も知らずに喜んでいる。
店主はため息と共に首を振った。
「それでこのイケメンだよ」
女性はたいてい彼に興味を持ってしまうわけだ。
「当然の結果ながら、男どもは不満だよな」
ひひひ、とテーブルの常連客が笑った。
「そして女の子から連絡が来ると、この人はあまねく断る」
「そして幹事は女の子からひんしゅくを買い、男たちにも責められる」
店主のあとに常連客が続ける。見事な連係プレーだった。
しかしどうして常連客までもそんなことを知っているのだろうか。久我はようやく口を開いた。
「なんでそんなこと知ってるんですか?」
単純に尋ねると、店主の方が答えた。
「この店で散々愚痴るんだよ」
久我さんのいない時にね。
店主の口調と常連客の表情から、それはそれは切実に愚痴られたらしいことは想像できた。
悪いことはしていないつもりだったが、謝った方がいいような気さえする。
「石原くん、わかった?」
石原は呆気にとられてこくりと頷くだけだった。
恐縮して少々縮まった久我をみて、テーブルの常連客が笑う。
「色男は大変だね」
「悪気はないんですけどね」
テーブルの常連客は悪気がなくてもねぇと苦笑いし、席を立つ。
すでに会計は済んでいたらしく、石原に声をかけ扉に向かう。
石原も電車の時間らしく、慌てて荷物を掴んで出ていった。
扉から顔だけ出して、ありがとうございます、と捨てぜりふを残していった。
律儀な若者だなと思う。
手元のビールはまだ半分も残っていた。
急いで飲むか、残してしまうか。
久我が悩んでいるのを察して、店主が声をかけた。
「ゆっくり飲んでていいよ」
「ありがとう」
ふわりとした笑顔は、仕事ができて合コンも完璧な久我とは少し違った。仕事スイッチが切れたのだと、あからさまな変化に思わず笑ってしまう。
店主が外から看板を持ってきたり、店内の片付けをしたりするのを、ビールを飲みながら見ていた。
「純、疲れてるんじゃない?」
ぼんやりしている純のおでこを、大きな手でぺたりと押さえる。
「そういう顔してる?」
自覚がないので聞き返した。ため息が聞こえると共に、その手が髪を撫でていく。
「クマだね」
くま。
繰り返してようやく目の下のクマのことだと理解した。
もともとクマが出来がちな体質だが、そのせいか普段からあまり気にしていない。
「いつもあるよ」
キヨカズが、目尻にそっと口付けをする。
「妬けるなあ」
「クマに?」
妙な発想だ。確かにいつも一緒だが。
「悔しいから撲滅させよう」
そう言って、空になった瓶を取り上げる。
体を温めればクマも消えるという論理で、その夜からキヨカズは、純の体を抱いて寝ることにした。
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