秋冬春夏(完結)
5
純はトイレに立てこもっているうちに、あることに気がついた。
「トイレットペーパーがないんだ」
ぼんやりと呟いて、出ていく。
キヨカズがキッチンをうろうろしていた。
「どうしたの?」
声をかけると、長い腕が伸びてくる。
巻き取られた、と思ったのたが、実際には抱き締められただけだ。
「ごめん、純」
先ほどの乱暴を反省したのだろうか。
普段飄々としているから、こうしてしょぼくれると非常に可愛らしい。
「大丈夫だよ」
軽く抱き返し、背中をぽんぽんと叩く。
「ホントにごめん」
もう一度謝って、キヨカズは純を解放した。
それからは至って普段通りだった。
ダラダラと朝食を用意して、ゆっくり食べる。朝食のコーヒーを持ったまま旅番組を観たり、音楽を聴いたりする。
純が出がらしで二杯目のコーヒーを入れる頃、キヨカズがシャワーを浴びる。
ここで洗濯機をスタンバイしておくと、キヨカズが使ったタオルを放り、スイッチをいれてくれる流れになっている。
薄いコーヒーを飲んで、また窓の外を眺めた。日溜まりが見えて、ぽかぽかだなぁと呟く。
土曜はキヨカズが店を開けるので、午後は別行動としている。
キヨカズを見送ってから、純も家を出る。
トイレットペーパーを買わなくちゃ。
家と駅の中間にある薬局を目指し、街を歩く。
途中本屋を通り抜けて、雑誌の表紙を吟味する。
妙に、北欧が目につく。
北欧か。
口のなかで呟いた。
本屋は帰りに寄ることにして、とにかく薬局を目指す。
寄り道していると、最初の目的を忘れてキヨカズに笑われるから。
薬局というのは物が多くて落ち着く。何でもある安心感だろうか。
そういえば洗濯洗剤も残り少ないんだったと、実物を見て思い出す。
いつもの洗剤を選べばいいものを、なんとなく、あれこれパッケージを確認したりする。
結局いつもの詰め替え用を買うことにして、時間の無駄を後悔する。
トイレットペーパーと洗剤をぶら下げて、通りに出る。
付近で外国人が妙に写真を撮っていて、純も立ち止まりその視線を追ってみた。
1階から3階まで、窓際にカフェのカウンター席が並んでいる。それだけだ。
足元までガラス張りでパンチラするというわけでもなく、珍しい広告看板があるわけでもない。
なにが面白いんだろうなと首をかしげ、先ほどの本屋に戻る。
トイレットペーパーを足元に置いて立ち読みを始めた。
開店準備の隙間に本屋に来てみたら、キヨカズは面白いものを見つけた。
女性向け雑誌のコーナーに、妙に目を引く立ち読み客がいる。平然と幾人かの女性に混ざっているが、スラッとしたいわゆるイケメンだ。
片手には付近の薬局のビニール袋がぶら下がっていて、しかも、足元にはトイレットペーパー。
キヨカズは笑いを堪えながらそっと近寄った。
「おい、色男」
横にピッタリつけて声を掛ける。
純は目を見開いて、振り向いた。
「……びっくりした」
「俺が言いたいよ」
おそらく純は自分がこの空間でどれだけ浮いているか分かっていないのだ。
「勉強熱心なことで」
気にしないのは、仕事と思っているからだろう。
「きれいな写真だな」
純が開いていたページを覗くと、小さな島の写真だった。
「そうだね」
返事をしながらも純がすっかりイメージのなかに入り込んでいることに、キヨカズは気がついていた。
どうやらそういうことがたまにあるようで、店での居眠りもその延長と思われる。
邪魔しないように、キヨカズは適当に目についた雑誌をとった。
女性向け雑誌のコーナーなんだから、すべて女性向けだ。中でも表紙の色合いが美しい物を取ったが、内容はよく分からない。
なにを思い浮かべているんだろうか。
横目で表情を確認する。
もはや純の視線は紙面にはなかった。
「純」
零れるほどではないが、涙で目が潤んでいる。ず、と鼻をすする音がした。
売り物を汚さないうちに、連れ出すことにした。
「コーヒーの一杯でも付き合えよ」
足元のトイレットペーパーを拾い上げ、狭い出入口に向かう。
ちゃんとついてきたようだ。
外に出て、振り返る。
純はキョトンとした顔でこちらを見ていた。
「ファッション誌立ち読みして泣くか?」
溜まった涙はいつの間にか、白い頬を伝っていた。無頓着にもそのままだ。
泣くか、と言われてようやく気がついたらしい。
何度も瞬きをし、ポケットを探りだす。
「紙はたくさん持ってるのにな」
本人より早く、ハンカチで涙を拭ってやる。
純はトイレットペーパーを見て苦笑した。
少し家の方に歩いて、喫茶店に入った。
コーヒーの香りで目が覚めるようだ。それでも、純はまだ現実に戻りきれていないような顔をしている。
何となく、原因はわかっていた。
ある日突然北欧旅行にキヨカズを誘った純は、妙に浮かない顔をしていた。
今の表情は、それに似ている。
純がどうだか知らないが、
キヨカズにとって北欧は思い出深い旅行先だ。
思い出深いなんてさらりと言ったら、どの口がと不満を買うかもしれない。
そういう場所にしたのは他でもなく自分だ。
キヨカズはため息をついた。
「いま、純の脳内はどこにいるわけ?」
「え?」
油断しきって曇った視線は曖昧にキヨカズを捉えていた。
小さく唸って首を傾げる。
その様子で、純がなにか不満がっていることを知る。
「思い出せなくて」
キヨカズが立ってたのは、湖だったかな、海だったかな?
まったく些細なことで悩んでいる。
しかも、
「海にも立ってたし、湖にも立ってたよ」
両方行ったのだ。
真冬の北欧である。
当然のように気温はずっと氷点下で、海も湖もすっかり凍っていた。
「そうか、両方行ったのか」
だからおかしな感じがしたんだ。
スッキリしたと見えて、純は嬉しそうに笑った。
キヨカズもつられて笑顔になる。
「キリストみたいだって、ふざけてたでしょ」
「そうだったな」
湖の上を歩くなんてキリストみたいだとはしゃいだ思い出は、確かにある。
思い出してみれば、いくらでも綺麗な風景が出てくる。
「きれいだったよな」
真っ暗闇に、三脚とカメラを携えた純が突っ立っていた。
風がなく、晴れていて、絶好のオーロラチャンスだった。
しかし純が突っ立って見ていたのはオーロラではなく、星だったはずだ。
「湖の上ではオーロラは見られなかったんだっけ」
「そうだよ」
オーロラは見られなかったが、湖の上の光景は耳の奥にこびりついて離れない言葉とセットで、鮮明に純の記憶に残っていた。
真っ白な雪が降り積もった湖と、そこから広がる森と、星空。
「いい旅行だったね」
純はそれ以上詳細には語らなかった。
ただ、幸せそうに微笑んだので、キヨカズは安心した。
記憶が確かなら、いや、忘れるはずがない。キヨカズはそこで純を捕まえたのだ。
暗闇に順応した目にはっきりと純の整った横顔が映った。
白い肌が暗闇を切り取って、美しかった。
頭に浮かんだ一言に、気の迷いかなと、最初は自分が信じられず葛藤した。
だが、今言わないでいつ言うのかと、急かす自分もいた。
これから、一緒にいてくれないか。
純はすぐにうんと言った。
が、それはただの相づちだった。
やがてキヨカズの方を向いて、もう一度うんと言った。
一緒にいよう。
純は分厚い手袋でモコモコの手を差し出し、同じくモコモコのキヨカズの手をとった。
よろしくお願いします。
片手は三脚を持ったまま、不格好に頭を下げる。下げた頭の上で、ニット帽のぼんぼりが揺れた。
「寒かったな」
現地の人は例年より暖かいと言ったが、とにかく寒かった。それは間違いない。
寒さを思い出したのか、純は身震いした。
「寒かったね」
否定しようもなく。
目の前のコーヒーにようやく手をつけた。
「土曜にこうしてるのは珍しいことだね」
純は呟くように言った。
日曜は二人で出掛けることもあるが、土曜はキヨカズが店に行ってしまうので別行動だ。
「意外と暇なの?」
本屋で捕まったと言うことは、彼も本屋に来ていたと言うことだ。
指摘されたキヨカズは首を捻った。
「平日よりはね」
土曜は省力営業だから。
時間も短いし、メニューも減らす。
人が来るようで来ないからだ。
純がふぅんと気のない返事をした。
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