秋冬春夏(完結)
3
ぽかぽかだなあ。
目の前の窓を眺めながら、無意識に声に出していた。
もちろん、今すっぽりとおさまっている布団の中も暖かい。
腕を出し、ヘッドボードにあるはずの時計を探す。
すやすやと寝息をたてている人を邪魔しないように、そっと。
しかしどうしても見つからない。仕方なく寝返りを打つ。
時計はいつもより遠くに置いてあった。
それよりも、違うところに目を奪われてしまった。
息を飲む。
優しい目は閉じられて、薄い唇はわずかに開いている。
この目が開いて、この唇から言葉が発せられると想像するだけで、体が熱くなってくる。
触りたい。
でも起こしちゃならない。
起こさないように、起こさないように、そっとベッドを出る。
このまま見ていたら、触れずには居られない。
寝室を出て、ひととおり身支度をした。あまり音を出さないように。
北側の窓辺で本を開く。
キヨカズの好きな本を拝借した。
何度も読んだと見えて、紙が柔らかく、手に馴染む。
きれいな言葉が並んでいる。
窓枠に肘をつく。自然と、いつも彼の店で居眠りをするポーズになっていた。
頭は勝手に、キヨカズの声を再生しはじめる。
穏やかな声だ。
羨ましいくらい、感じがいい。
延々と、頭の中をキヨカズの声が流れていく。
目を閉じて、無意識に脳内を流れていくイメージを眺めていた。
窓の外と同じく、脳内もぽかぽかだった。ぽかぽかという言葉が幼稚な気もするが、一番似合う。
「また居眠り?」
昨夜と同じように頭上から声が降ってくる。
はっと目を開けると、すでに視界はキヨカズに支配されていた。
先ほど釘付けになった唇が、ぴたりと触れる。
ちゅ、と音をたてて、離れていく。
「おはよう」
どうしようもないほど胸が高鳴って、返事ができない。
ただ間近にある顔を見つめるだけだ。
「返事しなさいよ」
キヨカズは呆れたように言って、もう一度キスした。
「ほら、おはよう」
さらにもう一度されて、ようやくおはようと返す。
「エライ、エライ」
お返事できましたね。
子供を誉めるような口調で言って、離れていく。
無意識に、手を掴んでいた。
「キヨカズ」
「なに?」
頭の中をいっぱいにする言葉は結局言えない。
「……ごはんにしようよ」
掴まった手を支えに立ち上がり、キッチンに向かう。
ぺたぺたと裸足の足音がついてくる。
あくびも後ろに聞こえた。
そんな些細なことで、ただ相手がそこにいるだけで、苦しくなる。
もう、愛しくて仕方ない。好きで好きで仕方ない。
ただ、どうしてか、その言葉だけ言えない。
苦しくて、ほんの少しだけ、眉を寄せた。
「純」
冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出そうとした純を、キヨカズが後ろから抱きすくめて止めた。
熱っぽい声だ。触れ合ったところから、純にも鼓動がはっきり伝わった。
「黙って布団を抜け出すなんて、ひどいな」
キヨカズの言葉は少しずれている気がした。先ほど窓辺で、おはようよりも先に言われたっておかしくない。
「どうして今頃」
純が違和感を口にすると、うなじに噛みつかれた。さほど痛くはなかったが、キヨカズの苛立ちが伝わってくるようで、体がこわばる。
「また置いて行こうとしたから」
純がキッチンに向かうとき、手を放したからだ。
置いて行かれたような気がした。
目が覚めて、手を伸ばしても誰もいなくて、酷く不安になった。
休日だから、昨夜純の目覚ましを止めておいたのに。
目覚ましを止めたから、ずっと隣で眠って居てくれるはずだと思っていた。
「逃げた訳じゃないよ」
それは分かる。純に悪意がないことは分かるからこそ、この焦れた気持ちがなんなのか、説明がつかないのだ。
「純」
どんどん鼓動が早くなる。
純がそっと冷蔵庫を閉めた。
努めて静かに呼吸をしている。
それを数えながら、キヨカズも自分が落ち着くのを待った。
だが、腹の中は熱くなるばかりだ。
全く気持ちがおさまらない。
それどころか、微かな呼吸の音にすら煽られ、苦しいほどだ。
焦れた気持ちを解放する手段を、キヨカズはひとつしか知らない。
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