秋冬春夏(完結)
放課後
「久我!」
授業を終えて、階段を降りていた。
頭の上から呼び止められ、段の途中で立ち止まる。
「金澤」
かなざわ、の音はなんとなくぎこちなく響いた。
「部活?」
「そうだよ」
金澤は微笑んで、じゃあなと手をあげて見せた。
驚くほどあっさりと引き返していく。
久我はしばしそこに立ち尽くしていた。
なんで呼び止めたのかも分からない。彼のことだから、そもそも意味などないのだろう。
やっとのことで足を動かし、体育館に向かった。
部活を終えて着替えたあと、鞄の中にペンケースがないことに気付いた。
家には予備がない。家族に借りるのは面倒だった。
久我は仲間に先に帰ってと伝えて教室に戻った。
日が暮れて、明かりもついていない校舎は薄気味悪い。教室で目当てのものを手にしたら、あとは早足で昇降口に向かう。
ヒタヒタという自分の足音が耳に這うように入ってくる。
全ての物音が遠いことが、気味の悪さを助長する。
久我は足を止めた。
こういうとき、薄暗いなかのさらに暗い闇の部分に吸い込まれて帰ってこられなくなる、というような妄想をすることがある。
柱の影。
扉の枠。
一番暗い部分は、どこだ。
背後から足音が聞こえ、息をのむ。
「久我?」
振り返った先に、数時間前階段で見上げた相手がいる。
久我はピタリと固まった。
「かなざわ」
またぎこちない、無意味の文字列のような響きをした。
今度こそ金澤は苦笑した。
「キヨカズでいいけど?」
久我本人はこのぎこちなさの原因を忘れていたが、金澤は覚えていた。
先日誰ぞに、いつまで間違えたまま呼んでいるんだと指摘されて、直したのだ。
行こうぜと金澤が久我を追い越した。
当たり障りない会話を二、三したあと、金澤は唸った。言いにくいことを言おうとしているようだった。
「さっきなんで止まってたの」
昇降口の付近で、確かに久我は立ち止まっていた。
金澤にはそこで立ち止まる理由などないように思われた。靴を履き替える下駄箱があるわけでもない。
なんと返事をすべきか、久我は少々考えた。
「笑わないで欲しいんだけど」
別に、と応えて話題を終わらせても金澤なら許してくれるような気もしたが、逆にそんな金澤には言ってもいいと思えた。
「暗いところに吸い込まれる、みたいな妄想をしてた」
何も聞き返さず、金澤は立ち止まった。
半歩で踏みとどまった久我は振り返ったが、金澤の視線は車が行き交う道路に向いていた。
久我も声をかけられず、しばし時間が過ぎた。
「ああいうところ?」
金澤は車道と歩道の間の植え込みを指差した。植え込みの、足元だ。
「そうだね」
自然に肯定した久我に金澤が微笑みかける。
「帰ってこられなくなる?」
「まあ、そう」
見透かされて言い当てられても悪い気はしなかった。金澤が面白がっている風じゃないからだろうと思った。
金澤が歩き出したので、久我も続いた。
「俺は帰る派かな」
「派ってなんだよ」
派閥ができるほどの妄想とも思えず笑ってしまう。
「久我は帰らない派だろ?」
「帰らないって」
そういうつもりじゃないけど。
そのあと、学校ならどこが吸い込まれやすそうだという話題で駅まで歩いた。
金澤と別れて電車に乗ってから、久我は会話を思い出す。
はじめは帰ってこられなくなる?と言ったのに、 そのあと帰らない派と言った。
帰れない派、じゃなかった。
意図して言い換えたのだろうか。
無意識だろうか。
考えながら二駅が過ぎ、久我は自分の体が緊張していることに気付いた。
帰らない派。
帰りたくない派。
帰れなくなりたい派。
どれかと言えば、帰れなくなりたい派かな。
電車の窓が写す暗闇が、久我を誘っている気がした。ただ、吸い込まれる前に金澤には訂正しておきたいと思う。
金澤は階段に久我の姿が見えたから、声をかけた。なんの意味もなかった。
その直後に久我と同じ中学だったというクラスメイトが話しかけてきた。
「久我と仲いいの?」
金澤は久我を友人の一人だと思っていた。久我がどう思っているかは知らないが。
クラスメイトなので、体育の時間にじゃれあっている姿も見ているだろう。今さら仲が良いのかと確認する必要もないように金澤には思われた。
「あいつ付き合い悪くない?」
唐突な問い掛けには、曖昧に答えた。なんとなく、悪意が含まれている気がした。
「すごいお坊っちゃんでさ、休日は部活にも出させてもらえないって、有名だったんだよね」
面白がっているような笑いが不快で、金澤は目を逸らした。
「小学校のときからそれで仲間外れだったって」
今はどうなの、と聞かれたが、問い掛けられたことに気が付かなかったふりをしてその場を去った。
いつもつるんでいる数人で、放課後久我を誘ったことが何度かあった。
部活のある日を除けば、出欠は半々くらいだったと思う。
だから特別付き合いが悪いとも思わなかったし、たとえ本当に付き合いが悪いとしてもそれは久我を遠ざける理由にはならない。まして悪意を持ってネガティブにも捉えられる噂を吹聴しようなどとは思わない。
部活に行くと、久我のクラスメイトである三方くんが先に来ていた。
彼はなにかと久我を話題にする。今日の体育は久我くんが大活躍だったね、と嬉しそうに話し掛けてきた。
同じ人物の話をするのに、さっきの奴の話とは印象が真逆だった。
成績優秀で、眉目秀麗。おまけにお坊っちゃんだなんて、そりゃあ周りの嫉妬も買うだろう。まして本人に嫌味なところはないのだし。
そんな嫉妬が集中すれば、居心地も悪いだろうな。
三方くんが久我を、浮世離れ、と表現していた。
全くそれがしっくり来る。
ただ、浮世に生きていることは事実だ。
居心地がいい別の世界があるはずと思うのは自分に都合のいい妄想なんであって、本当は逃げ場などどこにもない。
それから逃げようとしてないから、潔癖そうに見えるんだろうか。
三方くんは自分のカンバスに集中して、部屋は静まり返っていた。
金澤は無言のまま墨をすり、しばらく半紙を見つめて久我のことを考えていた。
結局一文字も書かず、墨をすっただけで時間が来てしまった。
逆に三方くんは捗ったようで、嬉しそうに今日の進捗を教えてくれた。喋りながらもさっさと片付けて、三方くんが先に部屋を出ていった。
ほとんど使わなかった道具を片付けるのは、汚れてないから簡単なはずなのにひどく億劫で、やたらと時間がかかってしまった。
部屋を閉め、職員室の片隅に鍵を返しにいく。
校舎は薄暗い。
自分以外の気配がある気がして、金澤は息を殺した。足音も、極力抑えた。
昇降口に向かうすらりとした姿は、途中でピタリと足を止めた。
辺りを見回すように、首が動く。
それが久我だということはすぐにわかった。
何を見ているんだろうと、彼の視線を追った。
柱の影。
扉の枠。
より暗い場所を探しているような気がした。気がしたというか、自分ならそうするというか。
わざと足音をたてて近づいていく。
久我は振り返った。
金澤が呼び掛けると、久我はまたぎこちなく、
「かなざわ」
と返した。
ぎこちないにもほどがある。
はじめての英単語でも読んでるような印象だ。
「キヨカズでいいけど」
金澤の反応に、そう、と小さい返事があった。
そのあとキヨカズと呼んでくれたかどうかは確認しなかったが、より暗い暗闇を探す遊びは面白かった。
久我と別れ地下鉄に乗って、思い出す。
帰らないって、そんなつもりじゃないけど。
緩く笑ってそう言っていたが、本心だろうか。
この世から離れたいと思っているからあんな妄想をするんじゃないだろうか。
地下鉄の窓の向こうには断続的な闇があった。
帰らない派。
帰ってくる派。
帰るつもり派。
そうだ。
自分なら、帰るつもり派だ。
訂正してこいと、金澤は窓に写る自分の姿に念じてみた。
翌日は体育の授業もなく、昼休みも顔を合わさなかった。
会えなければ会えないほど、訂正したい気持ちが増えていく。
放課後、手持ち無沙汰で教室に残っていた。残っていて久我に会えるわけでもないしなんにもならないのだが、なんとなく席を立てなかった。
誰もいなくなってからしばらくして、前の扉がガラリと開いた。
「昨日の件だけど」
挨拶もなく、久我は金澤に近づきながら言った。
「僕は帰れなくなりたい派だと思う」
金澤はぽかんと久我を見上げた。
お互い次の言葉を探して、それなりの時間が過ぎた。
「俺は帰るつもり派だったわ」
やっと出てきた声はそんな言葉になった。
しばらく固まっていた久我は、やがて渋い顔になった。
「帰るつもりで?」
怪訝そうに聞かれ、反射的に答える。
「帰らない派」
言ってしまうと笑えてきた。
久我もつられて笑ってくれた。
「帰れなくなりたいより酷いじゃないか」
「そうかもしれない」
とにかく二人とも帰りたい派ではない。
言葉にはしなかったが共通の認識になったような実感があった。
金澤が立ち上がって鞄を持つ。
「部活は?」
「今日は体育館使えないから」
「あ、そう」
そんなことを言いながら昇降口に向かう。
まだ明るいせいか久我は暗闇を探していないようだった。
少し安心して、金澤は久我の隣を歩いていた。
店を閉めて家に帰ると、純がまだ起きていた。
純は何をするでもなく食卓について、どこか見つめていた。
「ただいま」
清一の声がする方に、純はゆっくり顔をあげた。
「おかえり」
その曖昧な微笑みに、昔のことを思い出す。
柱の影。
扉の枠。
手洗い場の足元。
緞帳。
「あの妄想って、まだするの?」
あの妄想、と口のなかで繰り返す。ややあって、純は笑った。
「するよ」
断言され、返事を見失う。
なにかしら聞き返されることを覚悟していたから、純が迷いなく答えにたどり着いたのには驚きだった。
そのくらい昔のことだ。
清一がなにも言わないうちに、純はでもねと続けた。
「今は帰ってきたい派だね」
帰ってきたい派。
あのときは、どう分類してもその派閥には入らなかった。
何が変わったのかと言えば、明らかなことがひとつある。
「俺は行かない派だけどね」
当時のように答えると、純は吹き出した。
「僕もそれがいい」
何気なく立ち上がり、足音もなく近づいてくる。
流れるように清一を捕まえて寝室に連れていく。
清一は無抵抗のまま布団の上に押し倒された。
「けどお前と一緒なら、行ってもいい」
純の薄い唇が、ひたりと自分の唇に触れた。清一はその感触を確かめながら返事を探した。
すぐに見つかった返事に、言う前からにやけてしまう。
「俺も」
お前と一緒なら、どこでも。
唇の触れ合ったまま、純が微笑む。
それは当然。
純の自信に満ちた声は、自分が言ったと錯覚するほど近くから聞こえた。
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