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秋冬春夏(完結)
おとなのかいだん(3)
しばらくして、また守山がフライング気味に来店した。

「今度はどうした」

苦笑で彼を迎えた。
いつかのようにカウンターに就いて、守山はとにかくビールを頼んだ。
出されたビールを3分の1飲み込んでから、意を決したように顔をあげる。

「具体的な技術知識を教えていただきたく参上しました」

お願いします、と頭を下げられ、はあと返す。

「俺以外に居ないの」

居ないとは思いつつ、聞かずにいられなかった。

「居ないです」

地獄の鬼を天使に変えるほどの人はあなたしか居ないです。

そもそもそんなリテラシーを持ち合わせている知り合いが他に居ないのだが、前回の話が忘れられなかったのでそのように付け足す。

「仕方ないな」

何でもお聞き、と両手を広げて見せる。

「爪は切ってます」
「合格だね」
「それからどうすればいいですか」

かなりはじめのところから教えなければならないことに少々うんざりするものの、それは仕方のないことだ。

「ゴムは用意しておきなさい」
「それならあります」

まあ、持ってるのは普通か。

「それと、潤滑油になるものね」
「なにがいいですか」

そればかりは好みだ。
その道の人に教わったことをそのまま伝えることにする。

「手に入りやすいものなら、ワセリンとか」

と言って、当時注意されたことを思い出す。

「ダメだな、油性じゃないやつが良いな」
「なんで?」

ゴムが劣化するから。
店主の返答に、ああ、と納得したようだ。

「油性じゃないやつならいいんですね」
「まあそうね……でもワセリンはあると便利だよ」

切れたときに使えるから、と言うと、守山は渋い顔をした。

「生々しいです」

そもそも生々しい話なのだからそこは耐えてほしい。
店主は目を細めて守山を見やった。

「その辺に売ってるローションだと弛くて使いづらいんだよね」

なので店主は粘度の高いものを選んでいる。ふむふむ、と守山が頷く。

「探してみます」

お互い住んでいるエリアが近いので、探す場所には見当がつく。

「あとは?」
「俺はゴム手袋かな、使い捨ての」
「はあ」

用途はわかっているようで、ゴム手袋とぶつぶつ繰り返すだけだ。

「で?」
「で……?」

それでどうするか教えろと。
店主は仕事中にこんなことを客にレクチャーするという想像もしなかった事態にやや狼狽えていた。

「俺が教わったまま話すけども」

そのまま実践したことなど数えるほどしかないが、とにかくその道の先輩に聞いたまま手順を説明する。
守山が段々表情を固くするので、話ながらも不安になる。
指を突っ込んでみるところで、守山が止めた。

「あの」

何指がいいんですかね。

そんなディテールどうでも良い気がしたが、答えてやらなければ気の毒である。

「俺は親指が多いけど」
「おやゆび?」

指の中では一番太いのに。
守山は小声で呟いた。

「入れやすいから」
「はあ」

質問が来なかったので話を続ける。

やがてぼんやりと自分の手を見た守山に、大丈夫と声をかけてみる。曖昧な返事が返ってきた。

「親指の件ですが」

どんだけ気にしてたんだよと、つい突っ込みを入れる。

ケツを掴んで押し込むってことですか。

いつもの調子からいくとずいぶん即物的な言い回しなので、また飽和状態なのだなと思う。
面白そうなので、からかうことにする。

「試してみる?」
「は」

ほら、とカウンターから出ていこうとすると、守山は立ち上がって後退りした。

「それはいいです!」
「そう言わずに」

百聞は一見にしかずだよ。
ちょうどゴム手袋もあったので、右手にはめながら追い詰める。

「やめて! やめて!」
「怖いの?」
「いろいろ怖い」

面白がって追い回す。
そうこうしていると、店の扉が開いた。

「楽しそうだね」

入ってきたのは久我だった。
守山は久我の方に駆けていく。
久我の背中に隠れ、心底楽しんでいる様子の店主をちらりと見やった。

「店長さん怖すぎます」
「親切心だよ?」

そうして膠着した二人を久我は交互に見て、何も言わないままテーブルについた。

「ビールください」
「はーい」

話題を強制的に終わらせたのだ。
久我が相手だからふざけていてもよかったが、店主はおとなしくカウンターに戻った。
久我の向かいに移った守山は、取り乱したことを反省するように背中を丸めていた。

「何の話?」

一旦場を納めようと思ったものの面白そうだから蒸し返さずにいられなかった。
ビールを持ってきた店主を見上げて聞く。

「大人の階段上らせようと思って」
「またその話?」

前に相談されたあと、久我には話していたのだった。

「知識技術を教えて欲しいっていうから」

ふうん。
久我の反応はいたって無感情だった。
が、次の一言で、久我も面白がっていることを守山は思い知らされた。

「自分で試してみたらいいんじゃない」

もはや机にしがみつく。

「協力してもらいなよ」
「バカ言わないでください」
「世界が変わるよ?」

店主によって世界を変えられた本人が言うのだから信じないわけにはいかない。
動けない守山の肩を、久我がとんとんと叩いた。

恐る恐る体を起こす。

「病み付きになるよ」

悪魔的な微笑みに、撃ち抜かれたような衝撃があった。
しかし、守山としてはそれでは困るのだ。自分がそれで病み付きになっては、恥を忍んで店主に教えを乞うた意味がない。
だめだめ、と首を振る。

「この人頑固だね」
「新しい扉を開くのは勇気がいるんだよ」

仕方ないな、と久我が小さなため息をついた。

「守山くん」

僕はまさか君にこんなことをいう日が来るとは思ってもみなかったけど。

突然何をと顔をあげると、まんまと怪しい微笑みに釘付けにされる。

「人間やめても良いくらいの快感だよ」

微笑むだけならまだしも、わざとなのか無意識なのか、唇の端をするりと舐める。

「知らないなんてかわいそう」

恐ろしい。
飲み込まれるんじゃないか。

守山が本気で身の危険を感じ始めたところを、店主が止めた。

「純」

天からの救済のように思われて、守山ははっと店主の方を振り返った。
が、店主は気まずそうな苦笑いを浮かべていた。

「俺が仕事にならなくなる」

もうやめて。

店主は情けなく頭を垂れた。

そんな彼を、久我も守山もぽかんと見上げた。

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あきゅろす。
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