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秋冬春夏(完結)
防災訓練

久我の会社は防災訓練が好きだ。
一年でもっとも盛り上がるイベントで、訓練のリハーサルすら行われる。
違う部は3回もリハーサルすると言うから驚きだ。

そんなイベントのなかで、久我の楽しみがひとつある。

防災用の保存食だ。

備蓄品の入れ換えのために、昼食にアルファ米や缶詰、粉味噌汁などが配られる。

これを、電気が消えた薄暗い自席で、そっと食べるのが入社以来の楽しみだった。
何でと聞かれても、なんとなくわくわくするからというだけだ。具体的な理由などない。

が、ここ数年は愉快な隣人がいるのでそうもいかない。

「久我さん、牛肉の缶詰半分こしましょうよ!」

「久我さん、この味噌汁って絶対に容器小さいですよね!」

「久我さん、これって不燃ごみですかね?」

毎年同じ事を言っている気もするが、松田本人が飽きないなら付き合ってやろうかなとも思う。そう思わせられるのが彼の嫌味のない良いところなのだ。

「今年は午後に訓練あるんですよ」
「午後も仕事しなくていいんだからいいよね」
「でも早く着替えたいです」
「それは同感だけど」

そんな話をしつつ、配られたツナ缶をそっと鞄にしまう。
これを何に使おうかと考えるのも楽しい。

松田が着替えたいというのは、防災用のユニフォームのことだ。消防が着ているような色合いの、作業服のようなものである。
訓練当日はそれの着用が義務だった。

久我純のユニフォーム姿が見られるこの日は、女性社員のお楽しみの日でもあった。
数日前から久我の訓練項目がネットワークを流れ、彼女たちは一喜一憂する。

着替えの瞬間を見ようとロッカーの前をわざと通る者もいた。
それはさすがに少数派だが、なにかと理由をつけた来訪者が増えることは確かだった。

さらには2年前、久我に腕章をつけてあげた松田には不幸の手紙が届いた、という逸話もある。

どんな執念かと久我は言葉も出ないのだが、松田をいじって楽しんでいる面々のネタとしてはいまだに効力を持っているらしい。


さて、お楽しみの昼食のあと、久我は会議室で救護の訓練の予定だ。

ユニフォームのままだったので、昼休み中も女性社員がちらほらやってきていた。
なかなか見慣れないもんだな、と感心してしまう。

訓練の時間が近くなって、早めに行こうと立ち上がったときだ。

「久我さん救護訓練ですよね」

向かいの席の女性がガタンと立ち上がり、緊張したような声で言った。

「……そうです」

久我はきょとんと、彼女を見下ろした。

「い、」
「い?」

松田も呆然と二人を見比べていた。

「いっしょにいきませんか」

そうだ。この人も同じ訓練だった。

普段ほとんどしゃべらない物静かなこの女性から、振り絞った勇気が滲み出ている気がした。

久我は魔法みたいにきれいに微笑んだ。

残念ながら、彼女はそれを見ていなかった。
見上げていた松田がフリーズした。
ついでに言えば、たまたま通りかかった副部長も立ち止まった。

「行きましょうか」

椅子を机に納めて、出入口に向かう。
彼女はとことこついてきた。

「救護訓練、はじめてですか」

意外と楽しいですよね。
僕、もう3回目なんですよ。
異動の度にやってる気がします。

社交性全開の久我は、ついでに色気蛇口も全開だった。

隣を歩いた彼女は、たった数十メートルの平坦な道のりにも関わらず、会議室についた頃には息切れを感じていた。


「不幸の手紙届きますかね」

久我がいなくなった部内で、松田が先輩に聞いた。

「お前が書いとけ」

……久我に。

そう答えたのは、立ち止まったまま動けなくなった副部長だった。

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