三毛猫の記憶
今日もまたいつものようにやって来る。長い尾を空に向かって伸ばし、太陽の匂いの四足を使い歩く。琥珀の目は夜の空に浮かぶ満月を思い出させ、斑模様の体は主の気紛れさを表しているよう。気温が一番高くなる頃、相変わらずゆるりとした歩みで万事屋に到着した。誰に挨拶するわけでもなく、まるで我が家とでも言いたそうに堂々と入っていく。玄関から、だなんてそんな礼儀など知るはずがない。開いている窓から体を滑り込ませるのだ。閉まっていても鍵は掛かっておらず、前足を器用に使って自ら開ける。鍵が掛かっていることはほとんどない。この家の住人たちが"これ"がやってくることを知っているので前もって開けておくのだ。
部屋に入ると日向を探し横になる。目的は勿論日向ぼっこであることは言うまでもない。欠伸を一つし瞼は閉じられた。
「おー今日も来たか」
「‥」
「俺出掛けっど、どーする?」
「‥」
「来るか?」
「にゃあ」
そうかそうか。男は嬉しそうに猫に話しかけ頭を撫でると玄関へと向かっていった。人語を理解できるような知能を持っているのだろうか。寝ようとしていた猫はむくりと立ち上がると男の後を着けていった。
街中を歩く一人と一匹。行き先はどこなのか、何をしに行くのか、そんなこと猫に分かるはずがなかった。ただ単に男の後を歩くことしか知らないのだ。男も男で猫がいつものように歩けるよう合わせてゆるりと歩いた。先程のように猫に喋りかけることもせず黙々と足を動かす。それを知ってか知らずか、猫も一言も、一鳴きもせず黙って続く。ぽかぽか温かい今日は絶好の散歩日和だ。
目の前に表れたのは色とりどりの香りの店。鮮やかに咲いたいくつもの花が美しい。いらっしゃいませ、と柔らかく上品に出迎えてくれた。男はもうすでに決まってあるらしく、店員に束ねてくれるように言っていた。猫にはそれが何の花かなんて興味ないだろうが、それは白の綺麗なものだということは分かっただろう。
太陽は傾き日の光がないおかげで気温も下がり少し肌寒くなった。時折吹く風はその寒さを引き立たせる。どうやら目的地と思われる場所に到着した。青く茂る丘。何時間も歩いて来たこの場所は江戸とは大違いの風景を持っていた。猫の目に映るのは男の背中と草だけ。ここに何があるのかなんて分からない。
「久しぶりだな。もう一年か」
「‥」
男は草の上に座り込み"何か"に話しかけていた。それは生き物でないから返答なんてあるはずもない、ということは猫でも理解できた。ただそれは一体何であるのかは理解できずにいた。男の横に移動し座ると頭や首を撫でられた。ついつい気持ちよくて声を出し、体を預けてしまう。
あの店で買っていた花は"何か"の前に置かれていた。そよそよ風に吹かれて花弁が動く。花の香りが風に乗りあたり一面に広がった。
「こいつな、お前がいなくなってから俺んとこ来たんだ」
「‥」
「俺によく懐いててよォ」
「‥」
「なあ、なまえ」
「にゃあ」
お前じゃねェよ。男は苦しそうに笑いながら猫の頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細めぐるぐると喉を鳴らす。大人しく触られていた猫は立ち上がると男の前へと移動した。その行動の意味など知る由もない男にとってただの気紛れにしか見えないだろう。
「会いてーなー‥」
「にゃあ」
鳴くのと同時に男の胸へ向かって飛び上がった。お、という声を出し斑の体を抱き締める。それは人間相手のように、ではなく両の手のひらと腕で優しく包み込むと言ったほうが正しいだろう。寂しそうにする男をその小さな体で慰めているつもりなのだろうか。それともただ単に気紛れなのだろうか。どっちにしろ男の表情は少しだけ緩くなったことに変わりはない。
三毛猫の記憶
ここにいるよ
090624
一壱子
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