Tricksters
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室内は、徐々に緊張感で満たされていく。つい一ヶ月程前に音入れをしたばかりなのに、もう別の曲に気持ちを切り替えなければならないとは。新しいものを次々覚えていけば、古いものから忘れてしまうのではないかと寧は思った。
改めて、ガラスを隔てた向こうに居る二人が自分とは全く違う人生を歩んでいるのだと実感する。彼女がそんなことを考えている間に、待ちに待ったレコーディングがスタートした。
「じゃあ、いくよー!」
「よろしくお願いします!!」
プロデューサーと二人のやり取り。音楽が始まる直前。和洋が、寧に向かって小さく手を振った。
――間近で聴く歌声は、満天の星空を独り占めするような気分にさせてくれた。なんて贅沢だろう。桜を絡めた切ない別れの曲は華美というよりも“優美”で、大正の世界へタイムスリップしたように感じるのだった。
「――はーい、一発オッケー!今日は調子良いなぁ?念のためもう一回録るから、その後15分休憩してカップリングね。」
二人はプロデューサーの言葉に頷き、同じ曲をもう一度録音した。ミネラルウォーターのペットボトルを手渡されながらブースの外に出てくる彼らを見て、寧は記事に使えそうな文句を考える。
――だが、出来ない。いつもなら何かしら台詞が浮かぶのに、今日はさっぱりだ。焦れば焦る程、脳が上手く働いてくれなくなる。部屋の片隅で行き詰まっている寧。そんな彼女の頭に、温かい掌がポンッと乗っかってきた。
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