Tricksters
143
 目の前の現実から目を背けたい。なのに、そうすることが出来ない。何故なら愛する人が、自分以外の女性と唇を合わせていることへのショックが大きすぎたからだ。

 初めは抵抗していた和洋だったが、えれなの豊満な体と妖しい視線に男の本能が負けたのか、彼女を押し返そうとした腕が力を失っている。そのことも、寧の心臓を大きく揺さぶった。

 重なり合った口の端から、どちらのものか分からない唾液がこぼれる程の口付け。二人の身なりが徐々に崩れていくのを見つめながら、寧は一言も発することができない。その場に縫い付けられたかのように、動けなかった。



「ン……和洋ッ、そこ……!」



 誰かの恍惚とした声で呼ばれる和洋の名前なんて、聞きたくなかった。見なくても想像できてしまう光景なんて、見たくはなかった。自分の恋人にすり寄ってきたえれなにも、それを受け入れてしまった和洋にも、何故だか怒りは微塵も浮かばない。心に芽生えたのは、“純粋な相手を傷付けてしまったのだから当然だ”と思いながら味わっている、二つの喪失感。

 ――自分を慕ってくれた人と、自分を愛してくれた人。大事なものが、音を立てて崩れていく心地だった。



「……おい。何してるんだよ、そんな所で。」



 背後から聞こえたハスキーボイスに、肩が跳ねる。振り向いたら、黒髪に赤メッシュの男。その人は、寧から目の前の光景に視線を移すなり、あからさまに顔を歪めた。



「……あの馬鹿!彼女ほったらかして何やって……!」

「希楽君、やめて!」

「はぁ!?ショック受けてるクセに何言ってんだよ!!」



 今にも相方に殴りかかりに行こうとしているのが分かる、希楽の表情。耳を塞ぎたくなる淫らな音を少し遠くに聞きながら、寧はこれまでにあったことを手短に打ち明けた。自分がえれなを傷付けてしまったので、この仕打ちは当然なのだと付け加えて。



「だからって、ヤスが浮気して良い理由にはならねぇだろ。拒むよな、普通なら。どんなに誘われても、好きな女のためなら理性くらい殺せって、俺は思う。」

「……そうかもしれないわね。ごめんなさい、ちょっと混乱してて……今日はもう帰るわ。また取材で。」



 “ちょっと”どころか、相当混乱していた。一刻も早く、この場から離れて住み慣れた部屋に帰りたかった。それなのに、ハスキーボイスの持ち主が掴んだ腕を離してくれない。



「……希楽君。私、帰りたいの。」

「分かってる。でも、ちょっと付き合え。」



 和洋達が居るスタジオのドアを閉め、寧の手を引いた希楽が歩き出す。途中ですれ違った工藤には“次の特集のことを食事がてら話し合う”と説明して、二人はベリーズエンターテイメントの外に出た。

 希楽の車に乗せられた寧は、目的地も分からぬまま、助手席で放心していた。車の色がレッドブラウンだとか、ラジオから流れているのが織春(おりは)という女性歌手の新曲だということを認識する余裕は、全くなかった。


[*back][next#]
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!