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境界線上のホライゾン
浴場の混浴者(浅間夢)

「…………」
「…………」

 沈黙。なまじ無音であるよりかすかな音が混じる方が静けさというのは引き立てられるもので。

「……ふぅ」

 物憂げな吐息。チャプンという水音。
 わずかな身じろぎで生じる波紋が浴槽の縁にぶつかって返る音さえはっきりと聞き取れるほどに静けさが空間を満たしている。

「あー、と」

 ビクリと、身を強張らせる気配を背後に感じる。それに釣られてタローもなんとなしに緊張を深めてしまう。

「いい、湯だな?」
「え、ええ。本当に、いいお湯で」

 ぎこちない会話は一往復で途絶えてしまう。ただただ気まずい。無言を痛いと思ったのは生まれて初めての経験かもしれない。
 汗が浮かんでは流れていく。湯船に浸かっているにも関わらず、身を清めている感覚がちっとも湧いてこない。
 どうしよう。どうすればいいのか。

「えと、タローくん。やっぱりお湯加減、は、どうでしょう? 男の子にはちょっと微温くないです、か?」
「ッ、や、平気だ。うん、丁度いい」
「そ、そうですか……」

 浅間の言葉が消え入るように途切れる。咄嗟のことについ突っぱねてしまったのはまずかったか。そこから会話を弾ませることができれば、あるいは、この針の筵のごとき状況を脱することもできたかもしれない。

 ――ああ、微温いな。やっぱ男なんだからもっと熱い湯がいいかな!
 ――わ、男の子ですねえ。じゃあ、ちょっと温度上げますね。
 ――サンキュ。……おい、浅間? ちょっと上げすぎじゃねえか?
 ――いえ、これでいいんですよ。だって、もうこれくらいじゃなくちゃ熱く感じないんです。
 ――浅間……?
 ――身体が、熱いんです。タローくん。私の熱、鎮めてくれませんか……?

 ない。色んな意味でない。なさすぎる。馬鹿か俺は。
 こんな馬鹿な考えが浮かぶのもすぐ後ろ、同じ浴槽の中に浅間が入っているからだ。緊張と困惑の真っ只中にも関わらず変にテンション上がってる自分がいる。だって浅間だぜ、特大の。タロー・山田、男の子。正直もうワっケ分かんねえ。
 なんでこんなことになったんだと、幾度も繰り返した問いかけを胸の内で塗り重ねる。
 放課後、真喜子先生に頼まれた雑用を教導院で済ませた時にはすっかり日も暮れていた。別にサボって遅くなったワケではない。ないったらない。
 夕方になってなお燻る夏の暑さに嫌だ嫌だとボヤきながらの帰路。にわかの夕立に降られたのは運が悪かった。慌てて近くの軒先に逃れるも一向に止む気配はなく。冷えて丁度良いとも言いがたい。
 どうしたものかと首をひねって。

「そうだ、鈴んとこに行こう」

 と、多少降られながら鈴の湯にまで脚を伸ばしたのがつい先ほどのこと。
 そこで、似たような経緯でもって現れた浅間と合流した次第である。最初は、互いに笑っていたのだ。

「あはは、すっかり降られちゃいましたね」
「っとにな。とっとと止んでくれりゃいいんだが」

 第二の不運が訪れたのはそのすぐ後だ。濡れ鼠が駆け込んできたのに慌てて湯を張る準備をしに奥に引っ込んだ鈴が戻ってきたのだ。

「あの、まだ、火、入れてなくて」

 夜というにはまだいくらか早い時間だったのが災いした。湯を沸かすのに幾らか時間がかかるのだという。
 いくら蒸し暑い夏場といえど濡れたまま、というのはさすがに具合が悪い。さてどうしたものか、と顔を見合わせた俺たちに、鈴が電撃的に切り込んだ。

「えと、片方だけなら、急げば」

 片方。つまり、男湯か女湯か、だ。
 こういう時に痩せ我慢をするのは男だろう、と先に譲ったのは俺の方だ。自分を優先して浅間に夏風邪でも引かせた日にはクラスの女子連中からの非難を避けられまい、という警戒もあった。

「い、いえ、悪いですよ! タローくんだって結構濡れてますし!」

 しかし、浅間はその勧めを受けなかった。常に一歩引いた立ち位置から物事を見ることに定評のある、自分を後回しにしてばかりの浅間・智だ。こういう時にもそれは変わらなかった。
 あとはひたすら譲り合いだ。俺が、私が、お前が、貴方が。
 俺は平気だと強引に押し切る手段もあったが、途中で思わずくしゃみをしてしまい、説得力を失ったのがまずかった。
 徐々に身体が冷えていくのをひしひしと感じながらの言い合いに終止符を打ったのは、鈴だった。

「じゃあ、二人、で」
「え?」
「は?」

 ――かくして、今だ。
 誰もいない鈴の湯の男湯。広い浴槽に浸かっているのは背中合わせに座る俺と浅間。交わす言葉もなく、ただ黙って身体を温めることに終始する。
 鈴にしては思い切った決断だと思うが、濡れっぱなしの俺たちを気遣ってのことだろう。それが分かればこそ、俺も浅間も拒みきれなかったワケで。
 だから鈴に非はない。ないのだ。今、こうして二人、顔を真っ赤にしながら入浴しているのは二人の問題でしかない。

「……あち」
「や、やっぱり熱かったですか?」
「いや、そ、そういう意味じゃねえ」

 顔が熱い。入浴しているから、立ち昇る湯気に晒されているから。そればかりでもないだろう。
 あの、浅間・智なのだ。
 彼女がすぐそばで、ともすれば肌の一つも触れ合っておかしくない距離に、全裸の彼女がいる。
 どうしたってよからぬ想像が働くというものだ。働かないワケがない。でないヤツは何だ。聖人君子か。不能の間違いだろうよ。

「ふう」

 耳に届いた息遣い一つにドキリとさせられる。
 いっそ振り向いてしまおうか、などと不埒な欲望が鎌首をもたげた。すくった湯を顔にひっかけて考えを洗い落とす。ダメだ。水音に浅間が両肩を跳ねさせた。

「……無心になるか」

 なろうと思ってなれるものでもないが、何かを試みていれば余分な考えも薄れるかもしれない。
 眼は閉じない。他の感覚がより鋭敏に浅間を感じ取るだけだ。
 じっと水面を見つめる。わずかな揺らぎ、広がっては消える波紋。立ち昇った湯気が天井に水滴を作り、それが時折ピチャンと湯船へ落ちる。

「――は」

 静かだ。余分なものが何もない。ふと見上げれば昇った湯気は渦巻き、循環しているように見える。
 のぼせてきたのだろう、くらくらとする頭の中に宇宙が見える。瞬いては消える星の輝き。渦巻く湯気は銀河のうねりに他ならない。
 音が遠ざかる。意識はまさしく靄のかかったよう。自然と頬が緩む。なんだか楽しくなってきた。
 それが、まずかった。

「あ、と。その、私、もう出ますね? タローはゆっくりどうぞ!」
「おう、サンキュ」

 パシャンと水の爆ぜる音。
 不意にかけられた言葉に、当然のように振り向いた。

「――え」
「……お、ピンク」

 思わず口を突いて出た言葉も最低のそれだ。
 浅間の顔がかつてないほどに、みるみる間に紅く茹っていく。タローの視線は、湯船から立ち上がった浅間の身体に注がれ動かない。特に理由はない。ただ、朦朧とした意識にあるべき判断が追いついていないだけ。
 立ち込める湯気に新しい流れが加わる。小さな渦。浅間が大きく息を吸ったために起きたものだ。
 ……まさしく大宇宙。女体は神秘だ。
 タロー・山田。攻撃術式の直撃をくらって昏倒する直前にて、最期の思考だった。





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