境界線上のホライゾン
砂浜の女王陛下(エリザベス夢)
寄せては弾け、引いては戻る。
一定の間隔で聞こえる波の音はゆったりとしていて、どこか心地良いものを感じさせる。
波の音は母の胎内で聞いた音と似ているなどと聞いたこともあるが、夏の日差しの下では水音の涼やかさだけでも気が落ち着くというものだ。
「なあジョンソン。夏休みだってのに俺はなんでこんなとこにいんだろうなあ」
「Mate、君が女王に呼び出されたからだろうね」
タローがボヤくように問いかければ、傍らに立つベン・ジョンソンが白い歯並びをキラリと輝かせる。色黒の肌が日の下でよく映えていた。
一つ、息を吐く。
「水着で?」
「Tes.、夏だからね!」
英国浮遊島を囲む仮想海。それを至近に臨む砂浜で力なく立ち尽くす。
事の発端は、何の前触れもなく飛び込んできた通神だった。
副.長:『タロー・山田。じょじょじょ女王がお呼びです。至急、さささ参上するように。場所は――』
何かやらかしたかと考え、いくつかの心当たりに行き着いたのも束の間、呼び出された場所がビーチであることに首を傾げた。
腑に落ちぬままに脚を運び、待ち構えていたジョンソンとセシルに手渡された水着に着替えて、今だ。
「なんかバーベキューやってるし」
「おう、お前も食うかい?」
「……もらいます」
ビーチではすでにオマリやキャベンディッシュがコンロを囲んでいる。セシルが凄まじい勢いで肉を平らげていくのに度肝を抜かれながら、オマリから串を一本受け取った。
齧る。牛肉、脂身多め。非常に美味い。
「ふ、楽しんでいるようだな。諸兄ら」
声に振り向けば、――花が咲いていた。
「お――」
思わず眼を見開いた。違う、花ではない。海風に撫でられ、ふわりと広がるのは花弁ではなく金髪だ。
長く、豊かな金色。肩で風切り、堂々と歩くその人は。
「Queen、まさしく、妖精のようだ」
ジョンソンの言葉にはっとする。見惚れていたことがなんだか無性に気恥ずかしくなって、一口、肉を口に足す。
妖精女王、エリザベスが目の前に現れた。
「すでに来ていたかタロー。時間遵守、結構だ」
「おお、うん。女王陛下についちゃ、今日も麗しゅう」
エリザベスは何も応えない。ただ堂々と立って、こちらを見据えている。
何だ、と考えて、すぐに得心する。それはそうだろう。女王から振るワケにもいかない話題だ。
「あー、なんだ。こういうのはあんま言い慣れてねえから、ご機嫌を損ねねえでくださると、助かる」
「よい。言ってみろ」
少し、エリザベスの口元の弧が大きくなった。
「素敵な水着……じゃない。水着姿。つまり、なんだ。よくお似合いだ、と思う、ます」
つい口が固くなる。しどろもどろと言ってもいい。
柄にもなく、それゆえに不出来な言葉を一つ、受け止めて。エリザベスが優雅に破顔した。
「ジョンソンに習うことだな」
「文才ねえんスよ」
「Mate、必要とあらばいつでも構わないが?」
「Tes.、サンキュー、ジョンソン。他あたってくれ」
熱の溜まる頬を冷ますべく、軽口を叩くのに意識を割く。顔が紅いのは夏のキツい日差しのせい、と思ってもらえていればいいのだけど。
女王がこちらの手元に手をかざす。
「それは?」
「あ? あー、バーベキュー。そっちでオマリさんたちが焼いてる」
「ふむ、肉か」
鉄串に貫かれた大振りの肉と野菜が持ち手に濃厚なソースを垂らして汚す。
鈍い熱とベタつく不快感。それらを覆して余りあるほどに芳しい香りが空腹を刺激する。
「ご所望で?」
軽く問えば、笑みで肯定された。
一本持ってこようと振り向いた――瞬間。
「いや、これでよい」
持ち手の手首を柔らかく取られて。持っていた串、その先にあった肉を齧られた。何に躊躇うこともなく。
「お」
思わず間抜けな声が出た。多分、顔も間抜けだったろう。
ふむ、と女王が口元を拭って、にいと笑った。
「悪くない」
「じょじょじょ女王! ななななんてはしたない!」
女王の傍らで日傘を傾けるダッドリーが声を荒げる。当の女王は鮮やかに聞き流している様子だった。
こちらはこちらで高まった熱を逃がすので精一杯だ。日差しでごまかすにも限度がある。
そうこうする内に、指を濡らすソースが手の甲にまで筋を作っていて。
それを見咎めた女王が、おもむろに仮想海を指差した。
「ダッドリー、あれはなんだ?」
「は?」
真っ直ぐに伸ばされた指先を、ダッドリーのみならずジョンソンも。コンロを囲んでいた面々もが眼で追った。
同様に、タローも顔を向けようとして。
「ん?」
女王がこちらの手首を押さえていた手を持ち上げた。
咄嗟に串先を傾けて逸らせば、ソースで汚れた手が女王の眼前に来る。
至近でわずかに感じた息遣いにビクリと肌を震わせつつ。一体何事かと疑問を抱く。
疑問は女王の次手で、即座に吹き飛ばされた。
「――ッッ」
エリザベスの唇が手に触れた。
手の甲を這うソースの雫が吸われ、そのまま河川を遡るように手の甲を撫で上げる。
柔らかい。女王の唇は弾けるように、それでいて吸い付くように柔らかかった。
「……ん」
ソースを取り去って、唇が離れる。かすかに漏れた吐息が名残惜しげだった、と感じるのは自惚れだろうか。
総ては一瞬の出来事だった。突然のことに言葉はおろか音さえ出ない。
「じょじょじょ女王、何も見えませんが……?」
「ああ、見間違いだな」
「は? じょじょじょ女王?」
海へと視線を向けていた者たちは女王の行動に気づいていない。ただ首を傾げ、気を取り直すようにそれぞれの行動に戻っていく。
そんなオマリたちの元へと女王がダッドリーを伴って歩き出す。
すれ違い様、こちらへ見せつけるようにチロリと舌なめずりをされてしまって。
「かぁ」
奇妙な音が漏れる。頭を抱えたくなる。頬は、触れて確かめるまでもなく熱い。
「ジョンソン」
「Mate、どうかしたかい?」
「俺、泳いでくるわ」
ジョンソンの返事を待たず、海へ駆け出し、飛び込んだ。
大きな水飛沫を上げて、全身が仮想海に沈む。心地良い冷たさに包まれて、もはやワケが分からない。
「ア゛ア゛――!」
海中で叫べば総て泡になって、誰に聞こえることもない。さながら、王様の耳はロバの耳。
頬の熱は、本当にしばらく消えそうになかった。
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