境界線上のホライゾン
武蔵上空の吊り橋試し者(ナイト夢)
「おー、高っけえ」
不意にタローが立ち上がったことで『黒嬢』が揺れた。ナイトはすぐに柄を握って制動。ほどなく安定を取り戻す。
「タロさんバランス崩さないでよー。術式かけてるけど落ちる時は落っこちるんだよ?」
「ん、悪い悪い。ほら、なんとなくなあ」
言いながら箒の後部、狭いスペースに座り直すタローが大きく手を広げてみせた。
眼下に見えるのは八隻の連なり。雲を散らしながら仮想海の飛沫を上げる航空都市艦『武蔵』が極東の空を飛んでいる。
見慣れた武蔵の空だ。今さら欠伸だって出ない。それよりも、太くはない箒の上でタローが器用に胡坐をかいていることに驚きたい。
「落っこちないでよ? したらナイちゃん、報告出さなきゃで色々とメンドーだから」
「そこはまず落っこちた俺の心配してほしいなあ」
特段落とすつもりはないので、万が一に落ちたらタローの自己責任だ。ナイちゃんセーフ。
タローもタローでヘラヘラと笑っているので本気でもないだろう。
少し、速度を上げる。お、とタローが昂揚を漏らした。
「でもさ、なんでいきなり箒に乗りたいだなんて言ったのさ。タロさん別に配送業にキョーミないでしょ?」
今さらだなー、などと思いつつ、なんとなく訊ねていなかった疑問を切り出した。
すでに時刻は夕の刻に差し掛かりつつある。一日の配送を概ね終わらせた頃、タローから突然の通神があったのだ。
少し箒に乗せて欲しい。全く脈絡のない申し出を訝しく思いつつも、思うところもあって合流することとしたのがほんの数分前。
武蔵の進行方向から左手、西の水平線には夕日の縁が触れようとしている。空は次第に夕の色へと染まりつつあった。
あー、とわざとらしく間を置いて、タローが言葉を作る。
「前に、ほら、言ったじゃねえか。その内乗せてくれよって」
「その時ナイちゃん何て言ってた?」
少し考えてから、答えが来た。
「あー、Jud.、Jud.。だったかな」
「……それ絶対に空返事だよね。なんで真に受けてんの?」
「空返事したってのも結構アレだかんなお前。まあ、いいじゃねえか。俺は箒に乗りたかった。お前は乗せてくれた。オーライだ」
「そーかなー……?」
なんとなく釈然としないままに箒を飛ばす。
今日の風はやや微弱。風が頬を柔らかく撫でてくるのがくすぐったく、またどうしてか心地良い。
抵抗を調整するように翼を閉じ気味にしつつ、武蔵上空からの景観を楽しんでいるらしきタローへ問いかける。
「でさ、箒に乗ってみてタロさん実際どんな感じ?」
「ん。風が気持ちいいねえ」
「なんか平凡な答えー」
思わず笑いがこぼれる。対して、タローが拗ねるように口を尖らせた。
「悪かったな、ネシンバラみてえなこと言いやがって」
「そういうこと言うのホントにやめてくんないかなあ……?」
未熟者:『今なんか不当に貶められた気がするんだけど気のせいかな? かな!?』
サンダ:『気のせいじゃね?』
金マル:『気のせいだと思うなー』
●.画:『マルゴットがそういうならそうなのね。ほら眼鏡、自意識過剰気持ち悪いわよ。猛省しなさい』
未熟者:『今! 貶められているね今!』
つまり概ねいつも通りだ。ナイちゃんセーフ。
不意に、箒がガタガタと揺れた。機能不全ではない。後ろに座るタローが膝を揺らしているのだ。ビックリするからやめてほしい。
そんな考えも知らず、子供みたいな光を湛えた眼が強請りの言葉を投げかけてきた。
「なあナイト、こう、なんつうか物足んねえからもっとバビューンっていかね?」
「おー、いっちゃう?」
「Jud.、頼まあ」
見ればもう日も紅い。そろそろ切り上げた方が良い頃合だろう。せっかくの乗客なのだ、フィナーレは精々盛り上げてあげちゃおう。
真っ直ぐに伸ばした背を少し曲げ、姿勢はやや前傾。ぐ、と箒を挟む太股に力を込めて。
空を後方へ置き去りにするように、箒へ加速を叩き込んだ。
「ハ――」
聞こえた笑い声も一瞬で引き離す。
飛ぶ。夕暮れの冷え始めた空気が殊更に冷たく感じられる。
少し昇って、急降下。武蔵の巨体を横に見逃して雲の中へ。視界の不自由と若干の息苦しさを胸一杯に味わってから元の空へと飛び出した。
はあ、と二人同時に息を吸う。夕に染まった朱の空気は妙に澄んで感じた。
「いいね、いいねえ。ズリいなあ。おもしれえじゃねえの箒乗り!」
タローがはしゃいで手を鳴らす。自慢の箒だ、褒められて悪い気はしない。
ちらと振り返ってタローを見る。興奮を隠さない、満面の笑みが夕日に照らされて紅く輝いていた。
制動をかけて空中停止。少し、考える。それにタローが首を傾げた。
「どした?」
「ねえタロさん、吊り橋効果って知ってる?」
「あ? あー、確か吊り橋の上でビクついてると頭が目の前のやつにホレたって勘違いするってえ、アレか?」
「それそれ」
「男同士だったらどうすんだろうなソレ」
「……ナイちゃんに聞かれても困るかなー」
今度ガッちゃんに話しておこう。ネタになるかもしれない。もう使われてるかもしれないけど。
見上げれば、武蔵の銀色を夕日の朱が照らして金色に輝いて見える。ちょっぴりレアだ。魔術陣を向けて撮影。漫画の資料になるかもしれない。
同じように、直下から見上げる武蔵の物珍しさを眺めながら、タローが口を開く。
「で、その吊り橋なんちゃらがどうしたって?」
「あると思う?」
「さあてね。勘違いするくらいならハナからホレてたんじゃねえの」
「……そっかー」
タローは相変わらず箒の上で胡坐をかいている。あまつさえ、片膝に肘をついて頬杖だ。すごい器用。
くるりと、箒を軸に180度、上下逆さまに回ってみた。タローが落ちた。
「――何してくれやがんだオメエは、殺す気か!?」
頬杖と逆の手でとっさに箒を掴んだタローが鉄棒の要領でぶら下がる。ナイス反射。
上下逆さの体勢のまま、タローと視線を合わせる。
「ドキドキするかなーって」
「したね。メチャクチャした。たぶん恋だぜコレ。あー、おっかねえ」
180度、元に。タローも再び箒の上に戻った。あ、普通に脚で挟んでる。もうしないって。
夕暮れも半ばを過ぎて、いよいよ夜の暗さが目立ち始める。タイムリミットだ。箒の先端を武蔵に向ける。
上昇しながら、タローが何やらもぞもぞと動いているのに気づいた。
座り方を変えたり、少しこちらへ寄ったり離れたり。何かに最適な体勢を模索しているようだ。
「タロさん何してんの?」
「ちょっとな。ああ、これでいいか。――よっと」
まず感じたのは、翼の付け根。飛行において風を掴む翼は敏感だから、最初に接触を感じたのはそこだった。
次に背中。翼を押しつぶすように背中まで距離を縮められている。
そしてお腹。後ろから回された両手で軽くホールドされた。
有体に言えば、後ろからタローに抱きしめられているカタチだ。
「……抱きにくいな」
「じゃ、やめたら?」
互いの間に翼が入るのだから当然だろう。潰された翼が窮屈で仕方がない。正直、早く離れてほしい。
なるべく平静を装えるように努める。タローが言葉を続けた。
「聞こえっか?」
「何が?」
「吊り橋なんちゃら」
言われた意味が分からずに首を傾げて、ほどなく悟った。
鼓動が聞こえる。
自分のものではない、密着した他者の鼓動だ。多分、普通より少し早い。多分と付くのは今現在の自分が参考にならないから。
沈みつつある夕日へ、速度を落とすように祈る。まだ朱の光に照らされていたい。ごまかせる。
黙ってしまうと鼓動が一層はっきりとする。呼吸まで聞こえる。何か、何かを言おうと口を開きかけて、
●.画:『マルゴット?』
突然、顔横に魔術陣が開いた。
金マル:『ど、どしたのガッちゃん?』
●.画:『別に、何も用はないのだけど。合流が待ちきれなくなったのかしらね』
金マル:『そっか。じゃ、後でギューッだね』
●.画:『ええ、お願い』
魔術陣越しに微笑み合って、軽くタッチ。指先に反応して魔術陣はただの流体に戻っていった。
もぞりと、翼に感覚が通って、まだタローが密着していたことを思い出した。
「ええと、そろそろ降りよっか?」
「……Jud.」
気の抜けたような返事だった。腕を解いて、少し離れてまた胡坐。
武蔵に戻り着いた頃にはもう夕日も沈みきって暗くなっていた。適当なところでタローを下ろす。手を振って、別れて。
帰路に着くべく、また高度を稼いでいく途中、ふと見下ろした背中がなんだか遠く感じてしまって。
「タロさん?」
つい、呼びかけてしまった。
振り返った顔は薄暗さに紛れて窺えない。お互い様かな、と内心で笑って。湧き出てきた言葉を投げかけた。
「その内、また乗ってみる?」
さざめき吹いた風が雲を乱して、一瞬だけ射した星明りが驚いたような表情を照らしてくれた。
もうちょっと、星、明るくてもよかった。向こうからこっちがずっと綺麗に見えただろうに。
薄暗がりから返事が一言告げられた。
「Jud.、頼むよ」
「ん、Jud.、Jud.」
気楽に二回、繰り返す。後にこれが二人だけに通じる秘密の合図になった。
気のない返事の後は夕暮れの空で二人きり――。
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