逃亡靂 裏切 「どういうことじゃ!」 「大きい声出さんといて!」 行雄は辺りを伺うと声を低くして律子に詰め寄った。 「嫁ぐなんて話、今まで何で言わんかったんじゃ」 「一々行雄さんに言わんといかん義理はないじゃろ」 「りっちゃん、わしを好きや言いよったやないか」 「そんなもの、あん時の常套句やないか。そんなこと一々間に受けるほど子供やないやろ。それにこれは親が決めたことやけん、しょうがないんよ」 律子は冷たく言い放つと行雄との間の距離を取った。 「りっちゃん!」 視線を合わそうとしない律子に焦れて行雄は情けなくもすがるような言葉は震えていた。 「もう放って置いて。うち行雄さんと結婚するなんて一言も言うとらんけんね」 数日前祖母のミツがもたらした報せは行雄の心情を激しく揺さぶった。 律子は周りに気を配りながら行雄から離れていった。村から離れた場所が良いと言ったのは律子だった。 『横川の律さん、八幡村に嫁ぐそうじゃ』 行雄は自分の耳を疑った。 そんなはずはないと何度も律子の元を訪れたが取りつくしまもなく追い返されるばかりだった。漸く取り付けた約束も人に見られたらまずいからと律子は迷惑そうに人目を憚って逢うことを渋々承諾したのだった。 何故こんなことになったのか。 どこで歯車が狂ってしまったのか。一向に回復の兆しの見えない抗えない未曾有の現実に行雄は苛立った。 冬支度を始めた村の景色は色を無くし始めていた。低い丘陵の頂に聳える楠の袂まで歩くと辺りの景色は夕闇に沈みかけていた。西の稜線が赤く燃えていた。 頭上で枯れ葉の小刻みに振れる音を聞いて行雄は視線を上に上げた。 人がいる。 薄闇に紛れて輪郭はぼんやりとしているが誰か自分以外の人間がこの場所に逃げ込んで来たのだ。 「誰じゃあ、そこにおるんは」 . . . 行雄には本当はその正体が誰なのか判っていた。 「おー、その声は行雄か。おまんも登って来い」 . . . 「何じゃあ、祐一かぁ」 「どないしたんじゃ、こんな時分に。珍しいのォ」 行雄は登り慣れた楠の大木の膚に足を掛けて器用に登って行く。 「お互い様じゃろ」 行雄は祐一の元まで辿り着くとその脇に腰を据えた。樹齢百年以上もある楠は見事な枝振りで男二人の体重を受けても微かに軋みを上げるだけだった。 「久し振りじゃのう。元気か」 「そういうおまんはどうなんじゃ。徴兵なんぞに志願などしてどうするつもりじゃ」 「どうするもこうするも御國の為じゃ。国民の義務じゃけんの。なぁに、一年ばかり早まっただけのことじゃ」 「そうか」 「おうよ」 「…美幸さんも残念がるじゃろ。働き手がおらんようになると」 祐一はゆっくりと煙草の紫煙を燻らせながら、遠く山間に沈む夕陽を追い掛けていた。その横顔は闇の中に包まれてしまって行雄には表情を窺い知ることは出来なかった。 「おうよ」 楠の葉がざわめいて夜風が二人の間を凪いで行った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |