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短篇拾
『 ASSASSINOT 』



 ぐつぐつと煮えたぎる釜に放り込まれたかのように灼熱に焼かれて自分の身体が茹で上がっていくような錯覚を覚える。

 首筋や脇の下から流れる汗は不快で、そのせいで無意味な苛立ちが一層増していることに苛立つ。


 暑さから逃れようにも日陰もなく、林立するビル群は吹き抜けていこうとする風を拒んでいるかのように無風だ。

 空々に渇く喉を潤そうと唾を飲み込むが、汗となって吹き出した水分は最早残っていないかのようだ。


 今時、このご時世、こんなことでくたばるのか?と疑問に思っても現実の陽射しは容赦なく降り注いでくる。



「くそっ」



 悪態を吐こうとも喉の渇きは癒されないし、苛々の治まる気配すらない。
 それは寄り一層増幅して自分自身に降り掛かった。



「クソッ、死ね」



 誰に対するものなのかは解らないが、口に出さなければ体内が核爆発を起こしそうで無意識に口を突いて出る。


 のろのろと歩きながら周囲の人間に視線を這わす。
 午後の休憩が済んだばかりだからか、それともこの地獄のような暑さのせいか比較的人が少ないように感じられた。
 比較的、などと考えたところで男がこの界隈に訪れることは殆ど無かった。自分とは無関係の世界だ。


 自分は異物だ。


 高級そうな、洒落て気取ったような服を着た人間がぞろぞろと清ました顔で行き過ぎていく。
 自分のような小汚ない格好の人間とはかかわり合いを持ちたくないのだろう。視界の隅にさえ映してはいない。


 こいつら全員の顔に唾を吐きかけてやったらやつらは一体どんな顔をするのだろうか。そう考えて嗤いそうになって止めた。

 今この状況で自分は唾も飲み込めないではないかと茹だる頭が冷静に判断する。


 矢っ張り自分は馬鹿だと今更ながら諦めた。所詮自分の出来は他所のやつらとは違うんだとそう改めて思うだけだった。



 辺りを見回してどこかに入ろうかと思うが、小洒落たような店ばかりで到底自分には似つかわしくない。
 そんなところでは五分と居座れないだろう。



 のろのろとふらふらとさ迷ううちにそれでも馬鹿は馬鹿なりに馬鹿の嗅覚を持って探し当てるのか、三メートルほど先に周りに取り残されたような喫茶店ともバーとも取れるような店を認めた。



「俺は犬かよ」



 くんくん鼻を鳴らしながら店の前で立ち止まると扉の脇に立て掛けてある看板に目をやる。そこには横文字で店の名前が書かれてあるらしかったが、生憎男には解らなかった。



「気取りやがって」



 男は悪態を吐くと古めかしい木製の扉に手を掛けた。作りの割には軽く、雰囲気通りの古い鈴の音が心地好かった。



 外の刺すような陽射しを浴びた後に入った男の視界は暗転した。

 暗い。

 光が弱いのか?そう思って足を踏み入れる。ぼんやりと店内の輪郭を浮かび上がらせた光がパタンと云う音とともに消え失せた。


 真っ暗だ。


 弱いんじゃない。灯りが点いていないのだ。



「おい」



 男は堪らず声を出した。



「おい、や、やってねぇのか」



 思わず声が裏返りそうになり男は喉元に触れた。



「やっておりますよ」



 直ぐ脇から聞こえた飄々とした声に男は叫び出しそうになった。喉に添えていた手に力を込めてそれを寸でのところで呑み込んだ。

 ぼんやりと――否、はっきりと老人の顔が認識出来る。男は周章てて周りを見渡せば店内の様子も判るほどの灯りが点っていた。


 なんだ?


 店内は古臭い革のシートに貧相なテーブルが四組ほどの狭い作りになっている。

 一番奥に一人とカウンターに一人座っている。だがその二人とも何事も無かったかのように手元の書物に視線を落とすか煙草を吸っている。


 何なんだ。


 男は先程まで自分を苛んでいた熱がすっかり引いていることに驚きと僅かばかりの不安が沸き起こった。
 残骸がベタつき不快感だけが残る。
 男は微かに指先が震えていることに気付いて掌を握りしめる。



「さぁ、御好きな席に」



 老人は男を促すとカウンターの裏へ回る。要するにあれが店主なのだろう。マスターと呼ぶには少し老いすぎているようにも思うし、ニヒルさを出すには好好爺な体が拭えない。


 一番手前の座席に座り、もう一度店内の様子を見回す。
 これと云って特徴のない作りで、ただ古すぎるのかと云われれば建物自体は古いのだろうが清掃は良く行き届いているように思えた。
 そこに先程の店主とおぼしき男が冷やとお絞りを持って脇に立つ。



「如何なさいますか」



「は?」



「御注文」



「あ、ああ。注文、注文ね。…こ、コーヒーくれよ、アイスコーヒー」



「はいはい、アイスコーヒーですね。畏まりました」


 にこにこと表情を崩さぬまま店主は再びカウンターの中に戻っていった。
 男は水滴の浮かび始めた冷水を見て、喉が渇いていたことを思い出した。
 何をやっているんだ。調子が狂う。

 先程の不可解な出来事のために頭の中は状況に追い付けずにいた。


 店内の照明は白熱灯とはいかないが物が判断できるほどの灯りが点っている。
 奥の席に座る男も表情は下を向いたままなので判断することは出来ないが認識は出来る。カウンターの男然りだ。ならば先程の暗闇は何だったのか。
 突如光量の少ない室内に入ったためにそのように感じただけなのか。

 男はグラスに目を移すと良く冷えたその水を飲み干した。


 胸のポケットから煙草を取り出し火を点けると溜め息とともに煙を吐き出した。



 そもそも――

 そもそも、自分がこの似つかわしくない場所に来ることになったのにも自分自身の失敗を取り戻すためだ。
 それなのに出鼻を挫かれて、決着を付けるまで戻るなとどやされ、あちこちを探し回り結局捕まえることが出来ずにここに辿り着いたのだ。


 薬を使わなきゃ、勃たせられねぇインポ野郎が。


 脂ぎった顔に整髪料をベッタリと付けた髪を後ろに撫で付けた上司の顔を思い出して男は苛立ち紛れに煙草を灰皿に押し付けた。



 ことり、と云う音で店主が注文の品を運んできたことを知る。びくりと肩を震わせて男はそれほど身長の高くない店主を仰ぎ見た。
 店主は相も変わらずにこにことしている。何となく気味が悪かった。



「御ゆるりと」



 そう云って店主は背中を向けた。


 一体なんだと云うのか。


 時計を見ると二時四十五分丁度を指していた。
 だからなんだと云うことはないが未だ目的には達しておらず朝から動き回っていたにも関わらず収穫はゼロに近かった。この後動いたからと云って何かしらの動きがあるようには思えなかった。




 そもそも――

 そもそも、あれは本当に俺の失敗か?最初にあの男を連れてきたのは上司であるあの男では無かったか。
 再びあの脂ぎった顔を思い出して不快感に吐き気が込み上げた。
 飼い犬に手を噛まれた上司にざまぁみろと舌を出してやったがそのとばっちりはこちらに向いた。



 男はグラスにストローも挿さず直接口を付けた。少し酸味の効いた黒い液体が冷えた喉元を通り過ぎる。



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