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短篇拾
『 目眩 』



 初夏の柔らかな陽射しを受けて、湖面が硝子細工を散りばめたように煌めいていた。
 爽やかな風は湖面を滑るように凪いでいる。
 酷く、穏やかだった。
 その湖畔に佇む二つの影がこの美しい空間を歪にしていると思った。
 くるくると廻る白いパラソルを男は冷めた眼差しで眺める。

 滑稽だ、と思う。

 此処でで何も知らず幸せそうに微笑む彼女を見て、そう思った。
 後どれくらい此処にいるつもりなのだろう。
 早く、元の道を辿りこの場所を離れたいと思う。このまま、彼女に付き合うのは時間の無駄に思えてならなかった。それでも自分は無駄とも言える紳士で、理知的な微笑みを彼女に向けている。
 滑稽だ、と思う。
 この場所に自分と云う人間は酷く不釣り合いなのだと思う。彼女の想い描く自分とは果たしてどの様な人間なのか。
 しかし、彼女は気付かないまま、幸せそうにそよぐ風を受けて、安らいだ微笑みでその男に振り返る。
 こんな男の何処が良いというのだ。

「――さん?」

 彼女が、自分の名を呼ぶ。その声の甘さを含む響きで、彼女の自分に対する好意を知る。
 言葉は小さな波紋を作り、水禍の中に飲み込まれる。

「一緒に、此方に来て頂けるとは思いませんでしたから――」

 彼女は湖畔から目を男に移す。

「嬉しかった」

「ええ」

 その言葉に含まれる意味を、それらは一体如何程の価値があるというのか。

「あの方に、感謝をしなければなりませんね」

 感謝をするのは此方かもしれない。この壊れかけた劣情に僅かばかりに残酷な猶予を与えてくれたのだから。
 彼は今どうしているのだろうか。
 口許に苦い笑いが込み上げる。

「私、何か変なことを申しましたかしら?」

 彼女に、自分はどう映っているのか。

「いえ」

 いっそ、憐れに思う。
この男の心は酷く蝕まれて、もう手の施しようがないと云うのに。
 彼女を想う、彼の方が幾らかまともであるだろうに。何を好き好んでこんな男を選ぶのか。
 そして彼は何故、彼女を選ぶのか。

 何故、自分を誘ったのか。

 彼女の気持ちを知っているだろうに。
 そんな道化染みたことをしてどうなると云うのか。
 惨めなだけではないのか。


――嫌だっ!


 ならば、何故誘ったのだ。己が選んだことではないか。

「――さん、大丈夫かしら」

 パラソルが彼女の表情を隠す。

(しおらしいことだ)

 自分にそんな姿を見せた処で何の役にも立ちはしないのに。

「心配ですね。…戻りましょうか」

 彼女は少し驚き躊躇う素振りを見せる。

「そうですね。風も出てきたようですし、戻りましょうか」

 その従順な態度に苛立ちを感じて、男は密かに拳に力を込めた。
 こんな女の何処に惹かれたと云うのだ。


(くだらない)


――彼女を悪く言うな!


 それならば自分に従えばいい。そうすれば望む通りに彼女の前に傅く事さえ厭わないのに。
 望むものは決まっている。
 何時からかこの心を絡めて離さないその無垢な眼差しは自分と云う人間の醜さをより刺激した。


――なんで!!


 何故だろうか。
 自分自身、戦慄を覚えた程だ。


――信じてたのに


 信じる?
 誰を?
 何て愚かな、そう思って覗き込んだ眸は憎悪に揺れていた。
 きつく睨み付けたその眼に背筋が奮えた。
 その心が、思考が、身体がこの醜い男で一杯になればいいと思った。
 その弱さを、その強さを、その秘めた心を妬ましく思った。

(いっそのこと、あのまま狂ってくれたら良かったのに)


――ああっ


 感じたくせに。
 この男の欲望で歓喜にその身を奮わせたくせに。
 貪欲に彼を貪ったこの身体は、もう彼が欲しくて堪らないと渇望している。

 麻薬の様だと思った。

 血液を巡り、臓腑迄も腐らせる、麻薬の様だと。

「…何も、お話にならないのね」

 振り返り寂しげに微笑むその顔を見詰めた。

「貴方の心を捕らえている方はどんな方なのかしら」

 濡れた眸に、自分と同じ恋情の炎を見たような気がした。

「報われないものですわね」

 自嘲的なその笑みはけれどもはっきりと女の強かさを孕んでいた。


――やめてくれ


 鬱蒼と繁る木立の中に降り注ぐ木漏れ日は白いパラソルに反射して眼を焼いた。
 草木を踏む不安定な足場が軋むような音を立てる。
 幻なのかも知れない。
 この世界は自分が創り出した幻想なのかもしれない。

「彼は何故貴方を連れてきてくれたのかしら?」

 望洋とした虚構の中に放り込まれたような錯覚に襲われる。
 何故、自分を誘ったのか。

「あの人、恐い人よね。優しそうな顔して」

 何故、誘ったのだ。
 彼女は薄笑いを浮かべて、そのまま振り返らず歩いて行く。
 男は立ちすくんでいる。
 何故、彼に惹かれてしまうのか。
 彼は知っているのだ。
何もかも、分かっているのだ。
 抗う四肢も、慟哭するする声も、歓喜に奮えてのけ反る首筋も、誘う濡れた唇も眸も何もかもが、自分を嘲っているのだ。


――許さない


 そんなことは望まない。


――一生、苦しめばいい


 ただその心に傷を付けることが出来ればと。
 彼が自分を其処に刻みつけてくれればと。

 そう、―――


――忘れることは許さない


 揺らめく木漏れ日が、陽射しを和らげてこの身に降り注ぐ。汗ばむ首筋に湖からの冷たい風が通り抜ける。幻覚と幻聴は危うく揺れる男の脳を腐らせて行く。


 狂って終えばいい。
 このまま、狂わされても構わない。
 そう、そう望んだのは彼の方かも知れない。
 それで構わない。
 その鎖でいつまでも自分を縛り付けてくれるのならば、このまま朽ち果てて終っても構わない。


 彼が欲しいと、この骸が渇望する――


――ずっと苦しめばいい


 幻想が揺れた。
 引き吊った彼の唇が僅かに嗤っていた。


――俺を想って狂えばいい

 目眩がする。




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