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鬼灯-ホオズキ-




 あれはもしかしたら自分自身が見せた幻なのではないかと思った。

 峰子はあの日から何も変わることなく日常を過ごしている。

 何かを急くこともなく焦れたように智基を責め立てることもしなかった。

 ただ穏やかにただ凡庸と日常は繰り返されて行くだけだった。智基は自分自身の見た幻覚に恐怖し脅えていただけなのではないかと。穏やかすぎて感覚が麻痺していく。


 けれども、だからと云って智基はその答えを一層出せずにいた。これが幻でなく現実であることに微かな絶望を覚えていた。





 午前を過ぎ智基は洋書を片手に裏庭へ回る。
 先日会った男は毎日ここに足を運んでいるようでは無いようだった。あれから智基は一度として男に会ってはいなかった。

 夏の陽射しを潜って吹き付ける風は僅な熱と湿り気を帯びて智基のシャツを揺らした。元々体温の低い智基は熱に弱い。夏の強い陽射しは蒸された砂浜の如く智基の身体を熱していく。



――今日はやけに暑いな。



 智基は胸元の釦を幾つか外すと生温くベタつく風を懐に招き入れた。
 海岸からは離れているものの小さな村である。海から吹く風が潮風を運んで村全体を包んでいた。


 智基の陽に晒されることのない膚を風が撫でる。身体を伝う汗が冷やされ熱を下げていく。熱に高揚した膚が鎮静されていく。

 智基は深い吐息を吐いた。それはとても淫靡でセクシャル的な情景だった。




――身体が熱い。



 夏風邪を引いてしまったのかも知れないと頭の片隅で思う。それでもこの熱を放出しなければ自分は茹だって干からびてしまうだろうとそう思った。

 だから智基は男の気配に気付かないままその妖艶な姿を見られていることにすら気付かなかった。


 汗で張り付いた髪が、吹き付ける風に晒されて治まる熱にうっとりと閉じた瞼や薄く開く唇。仰け反った首筋から胸元の白さが木陰に降り注ぐ木漏れ日を受けて汗に濡れた膚を光らせていた。


 無機質な眼差しで見詰めていた男はくわえた煙草を足元に捨てると寄り掛かっていた金木犀から身体を起こし智基のもとへと歩み寄ってきた。



「扇情的な眺めだな」



 突然耳に飛び込んで来た言葉に智基は肩を震わせ身を起こした。



「…あ、なたは…」



 まさかこんな姿を晒すとは思わなかった。幾ら油断してたとは云え男の気配に気付けなかった自分に苛立ちを覚えた。

 男はゆっくりとした動作で智基に近付いてくる。それは戸惑う心が見せる幻覚かも知れない。
 逃げなければ。そう思うのに男の威圧的な視線に見詰められると身体が縛り付けられたように動くことが出来なかった。



「どうした」



 男の低く唸るような声が智基の耳に届く。男はすぐ目の前にしゃがみこむと右手で智基の顎を掴んだ。



「…小、井出、さん」



「覚えてたのか」



 煙草の臭いが鼻先を掠める。不快感に顔を逸らそうとしたが指が深く食い込んで抗えなかった。



「あんた、自分がどんな顔してんのか分かってんのか?」



 男の口許が厭らしく歪む。



「恐ぇな、あんた」



 身体が恐怖に震えるのに男の視線に曝されると奥の方から燻っていた熱が沸き上がる衝動に刈られた。


 掴まれていた顎から首筋へと男の掌が這う。肩先へと伸びた指が肩からシャツを剥がしていく。



「誘ってんのか?」



 震えている。
 今ならまだこの男から逃れられるのに。
 肉食獸に囚われた獲物の如く智基は身動き一つ取ることが出来なかった。

 智基は渇いた喉の奥に唾液を送り込むように唾を飲んだ。



「…生まれつきの淫売だよ、あんた」



 地熱が智基を煽り理性を危うくする。正確な判断が頭の片隅で本能に喰われていく。



「…いや、だ…」



「それが誘ってんだよ」



 言葉だけが空を掠めていく。

 抗おうにも身体が動かない。男の掌が妖しく智基の膚を撫でる。身体の芯から沸き起こる熱が夏の暑さと混ざり合って意識を朦朧とさせていく。



「たちが悪い」



 男はそう云うと智基の唇に噛み付くように口付けた。

 悪い冗談だと。これは夏の暑さが見せる悪夢だと口の中で蠢く男の存在を智基は無意識に追い掛けた。
 甘い吐息が鼻先から抜けていく。



「…最悪だな」



 男は智基から身体を離すと煙草を取り出し火を点けた。小さく舌打ちをすると立ち上がり視線を逸らしてそのまま立ち去って行った。

 残された智基は粘付く口内の不快感に唾を吐くとシャツの袖で口許を拭った。
 何が起きたのか理解出来なかった。抵抗することも罵倒することも出来なかった。

 いや、しなかったのだ。自分はあの男の行為を受け入れた。その現実に智基は悪寒を感じてぶるりと震えた。身体の力が抜けていく。酷い脱力感に襲われる。


 葉の隙間から覗く太陽が熟れた鬼灯の様に赤く燃えていた。



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あきゅろす。
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