過去拍手 瞳の奥(高杉) 左目の包帯は、何もかもを隠している。 家に帰ると、ドアの前に人影があった。 雨だというのに、傘もささずに濡れながら立っている。 わざわざこんな雨の日に、うちを訪ねてくる人なんていただろうか。 しかし、その顔には見覚えがあった。 「…高杉?」 そう言うと、その男は微かにこちらを見た。 濡れて重く垂れた前髪の隙間から包帯が見える。 高杉だった。 「…濡れてるじゃん、入りなよ」 そう言いながらドアを開けて部屋に入ると、高杉も無言でついてきた。 私は高杉にタオルを手渡す。 「どうしたの?」 「…どうもしねぇよ」 はぐらかすような笑みはいつもどおりだ。 高杉はろくに体も拭かないまま、キセルを取り出して火を付けた。 そんな姿を、私はお茶を入れながらぼんやり見ていた。 高杉は月に一、二度私のもとを訪ねてくる。いや、訪ねてくるというよりふらりと現れるという表現が正しいだろう。 何故うちに来るのかはよく分からない。 私のことを何だと思っているのかさえ不明だ。 友人、彼女、愛人、 どれをとっても、どこか違う気がした。 綺麗な黒髪から雫が落ちる。 その雫がはじけるのを見て、私は我に帰った。 「髪も濡れてる…ほら」 私はじっとして居られなくて、タオルで高杉の髪を拭き始めた。 高杉は何も言わなかった。拒絶するでもなく、少々荒い私の手つきに大人しく頭を揺さぶられている。 こうしていると、何だか子供みたいで可愛い。 高杉を可愛いなんて思うのは、きっと私だけなんだろうな。 私は高杉が好きだ。 それははっきりしている事実。どうしようもない奴なのに、いつの間にか引き込まれていたんだ。 あの、人を嘲笑うかのような深い瞳に。 最初は「なんであんな奴」なんて思っていたが、もう今更弁解する気はない。 高杉に会えると、素直に喜んでいる自分がここにいる。 ただ、高杉という男は悪い奴なのだ。 好きになったからって本当に報われるとも、良いことがあるとも思えない。 高杉が普通のその辺の人だったらいいのに。 そう思うこともあった。 でも仮に今までのいろいろな所業を除いたとしても、やはり難しい男に変わりはないのだった。 高杉の頭をワシャワシャと拭きながら、私はなんだか幸せのようなものを感じていた。 ずっとこうしていられたらいいのに。 ずっとそばにいて、こうやってのんびり暮らしてゆけたらいいのに。 だけど、いつまでもこのままという訳にはいかないことも、ちゃんと私は分かっている。 「……また、どこかに行くの」 私は高杉にそう聞いた。 「どうだろうな」 そんな答えしか返って来ない。 私はその質問の答えが是であることは知っていた。 そして高杉もそのことを分かっている。 いつも、別れてすぐに高杉は居なくなった。 高杉がうちに来たあとは、いつも何か事件が起きた。 高杉に会えて嬉しいと同時に、私は堪らなく寂しくなるのだ。 「また危ないこと、するの?」 「……」 答えは返って来ない。 高杉は悪い奴なのだ。あちこちで事件を起こしてみんなに迷惑かけちゃって。 でも私は、高杉が好きだから、 市民のみなさんより、高杉が心配なんだよ。 そんな思い、高杉はちゃんと知ってるだろうか。 「お前なんで泣いてんだ」 「え……」 涙が一滴、私の頬を伝っていた。今まで我慢していたものが溢れてきたのだ。 しまった。こんな面倒くさい女になるはずなかったんだけどな。 もし私が愛人と思われているなら、今すぐ関係を切られてしまうんじゃないだろうか。 ところが、心配するでもなく困るでもなく、私は高杉に笑われてしまった。 「…なんで笑うの…」 人を馬鹿にしたような笑みに腹が立ってきた。 この様子を見ると、どうやら愛人ではなかったようだ。 でも、私の涙は止まらない。 すると、タオルが私の頭上にふってきた。 今さっきまで高杉が使っていたものだ。 今度は私の顔が乱暴に拭われる。 「………いたい」 「うるせぇよ」 ほらね、優しい言葉も掛けてくれない。 抱きしめてもくれはしない。 一体、この男は何者なんだろう。 何を考えて、何を思って生きているのだろう。 高杉はいつも誰にでも、何かを隠して生きている。未だにこの男は何を考えているのか分からない。 どうしてこんな活動を続けているのかも、私のことをどう思っているのかも、大事なことは何も教えてくれないんだ。 ふと、タオルの隙間から高杉の左目が目に入った。正しくは左目の包帯だ。 その包帯は、高杉という存在をよりいっそう闇に似つかわしくさせた。 そこに何もかも詰め込んで、隠して、 独りで生きてるみたいに。 その包帯をめくれば、何かが見えるのかな。 私はそっと、高杉の顔に触れた。右手の親指で左頬を滑る。 高杉は何も反応しない。じっと、私を見つめている。 私は、そのまま包帯の上から左目に指をあてた。 包帯を取ろうとした瞬間、高杉が素早く私の腕を掴んだ。 「…あ…」 「…それはやめとけ」 怒るでもなく、やはりはぐらかすような笑みだった。 「あっ、お茶入れようか…そろそろでき…」 話題を替えて立ち上がろうとしたが、高杉は私の腕を放してくれなかった。 「…なんで俺がここに来るか教えてやろうか」 私は立ち上がりきれなくて、再び高杉の前に腰を下ろす。 「……な」 私が口を開こうとした瞬間、私の唇は高杉に塞がれていた。 一瞬、わけが分からなくて、頭が真っ白になった。 高杉は私を放すと、耳元でこう言った。 「別れの挨拶に来たんだよ」 私は、何も言えなかった。 知ってる。 本当は、うちに来た後に居なくなるんじゃなくて、居なくなる前にうちに来るんだ。 これからどうなるか分からないから、もしかしたら一生会えないかもしれないから。別れの挨拶。 高杉は立ち上がって玄関に向かった。 「傘、借りるぜ」と、返事も聞かずに私の傘を掴む。 私はそれを見送ることしか出来ない。 「…また、来るでしょう?」 「さあな」 「死なないんでしょう?」 「分からねぇよ」 今日もそんな微笑みしか許してくれないのね。 でも高杉はきっとまた帰って来る、そう私は信じよう。私だけは高杉の味方でいよう。 高杉のことを何も知らなくても、私は高杉の帰る場所でありたい。 左目の奥に隠した真実を見せてくれる日まで、私はずっと待っていよう。 出て行く高杉の背中を見つめながら、 いつかあなたの本当に触れさせて、とただ祈る。 また今日も私を残して、 派手な着物がひとつ、雨の中に消えていった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |