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無くしたもの
66 その壁は壊せるか






響き渡る大歓声はわたしの鼓膜を震わせ、コートの上に立つ彼らの大きな背中はまるで戦を終えた武士のようだった。一向に鳴り止む雰囲気を見せない喝采にぞわりと鳥肌がたち、思わずごくりと唾を飲み込む 。頭に置かれた弾力のある掌はやんわりとわたしの頭を撫で、影を落としたわたしの心をあやすかのように動き続けた。







「二連覇ですね」
「ああ、だな」
「おめでとうございます」
「……ああ」






今日この瞬間、帝光バスケ部は全中二連覇という偉業を成し遂げた。一軍の努力が、試合に出ずとも声援を送り続けたすべて部員の努力が実を結んだ瞬間だ。まさにそんな喜ぶべき状況に、なんでわたしは嬉々することも笑顔を浮かべることもできないのだろうか。




しけた面をするな、と今度はわしゃわしゃとまるで動物を撫でるかのように頭をかき乱される。顔を掠める髪の毛がこそばゆくて無意識に眉を顰めれば、大きな手はわたしの頭から離れていった。わずかに芽生えた心細さに目を閉じ、頭を巡る雑念を振り払おうとすれば何かがわたしの背中に触れる。再び瞼を開ければ、さっきと全く代わり映えのない同じ景色に、またもや落胆の念が芽生えた。





「センパイ?」
「……青峰にも言ったけど」
「……はい」
「お前も、今日くらい余計なことは忘れて喜んどけよ。おまえらの努力の結果だろ、そんな顔で終わらせんな。」






ふいに強い力で背中を押され、身体がつんのめる。危ないじゃないか。文句を言い付けようと後方を振り返れば、そこでわたしを視界に捉える虹村センパイの表情に、言葉が喉の奥に引っかかったように出てこなかった。わずかに寄せられた眉根に、結ばれた口許。なんだってそんな辛そうなのか。


センパイこそ、変な顔してるよ。その言葉も発せられることはなく、わたしの口はただただぱくぱくと金魚のように開閉を繰り返し、センパイを眺めるだけで終わった。じっ、と彼にしては珍しい柔らかい眼差しを向けられれば、言葉を紡ぐ代わりにわたしも同じようにセンパイの瞳を見る。





「……早く行けっつーの」




未だ響く歓声はもはやBGM。視線をかち合わせること数十秒後、この静けさを打ち破ったのは虹村センパイだった。足を止めたまま狼狽えるわたしに呆れたようにため息を吐き、さながら追い払うようにしっしっと手を振る仕草を繰り返す。そんな行動にムッと口を尖らせれば、わたしなんかとは比べ物にならないほど口をへの字に曲げた虹村センパイがいた。ここで戻ってもどうせどやされて睨み付けられるに決まってる、促されるがまま前方に足を進めれば、強い力で腕を引かれ思わず目をぱちくりとさせた。







「二連覇っスよ!柴田っち!!」





こういう時、確認するまでもなく腕の主は黄瀬で、いつものように人懐こい笑みを浮かべた彼によってわたしはカラフルな頭の輪の中に迎え入れられるのだ。

何気なく後ろを振り返れば、虹村センパイの姿はそこにはなかった。コートの隅にはけ、感情を剥き出しに喜ぶ黄瀬におめでとう、と小さく笑みを浮かべてそう漏らせば赤司くんに肩を叩かれる。全中による責任も重圧も、赤司くんは誰よりも感じていたはずだ。やっと今、彼の肩の荷が下りたんじゃないかと思う。やんわりと口角を上げた赤司くんの表情は、二連覇を成し遂げたことによる達成感で満ちているように感じられた。肩を叩かれた意味を汲み取るとすればきっと、思い詰めるな。とかそんな感じだろう。

……わたしは自分の事ばかりなのに、どこまで気配りができるんだろうか。自嘲気味になりそうな考えを振り払い、それを追い出すかのように深いため息をつく。目前の人物の赤い瞳を真っ直ぐに眺めれば、そんなわたしの行動にわずかに目を丸めたみせた。






「赤司くん、お疲れさま」





いや、赤司くんだけじゃなくてみんなもだけど。後を追うように付け加えた言葉は心からのものであって、嘘偽りのない本心だ。それがこのわたしの表情から伝わっているかどうかはわからないが。けど、そこはやはり赤司くんだ。そんな心配も不要なようで、一際人当たりのいい笑みを浮かべた赤司くんは静かに口を開いた。




「ああ、柴田も、お疲れさま。不慣れな事ばかりにも関わらず、ずっと側にいてくれたな。チームを支えてくれた事に感謝している。ありがとう。」
「……え、あ、ええと、」
「そこで吃るんですか」





いきなり、すぎないだろうか。不意に発せられた労いの言葉にわかりやすく動揺の色を示せば、いつのまにか隣に並んだ黒子がそう笑った。いや、まさか今そんなことを言われるとは思わなくてだね。むしろ、わたし何もしてないと思うんだけど。

赤司くんにそう言われると、なんだか無性に涙が出そうになるのはなんでだろうか。優しい声色のせいか、はたまたわたしが思い詰め過ぎているだけなのか。言いようのない感情の波から意識をそむけようと紫原に目を向ければ、緑間となにやら話し込んでいるようで勝手な親心からか感動を覚えてしまう。普段ぶつかることが多いけど、こういう時はやはり別なんだろう。なんだか新鮮だ。





「みんなの側にいられてよかった、ありがとう。……と、各々話したいことはたくさんあるんだけど、表彰式が始まるか。また、終わったら話そうね。」






手首の時計を眺めてそう呟けば、同じように時計を覗き込んだ赤司くんが頷く。青峰に対しても赤司くんに対しても、ひとりひとりみんなに言いたいことが積もりに積もってる。けど、それは全てが終わってから伝えることにしよう。

それから数十分後、表彰式が行われた。金色に輝くメダルを首から下げ、しっかりと前を見据えて立つ彼らの姿をさつきちゃんと眺める。感じるのは、微かな興奮とそれを覆い尽くすほどの焦燥感。不意にぎゅっと強く握られた右手に、右隣に立つ人物のその端正な横顔を眺めれば、嬉しいのか悲しいのか、そんな感情が入り混じったように眉を下げて笑うさつきちゃんがいた。





「ゆうちゃん」
「……ん」
「大ちゃんは、大丈夫だよね。みんなは、ずっと、これからも一緒だよね。」





同じだったんだ、感じていたことは。


当たり前か。彼女はずっとそばで見てきたんだ。わたしよりも昔から、わたし以上に青峰の事を。途端に握られた右手が冷えていくような錯覚に、心臓が大きく跳ねて鼓動が早まる。大丈夫だよ、と容易に言えないのはさつきちゃんもわかっているんだろう。硬く繋がれた手が、なにより強い証拠だった。

せり上がってくる様々な感情による言葉は喉元に留まり、わたしたちの間に流れた確かな静寂は観客の歓声によってかき消される。突出していた才能は形となってわたしたちの記憶に刻まれ、絶対的な強さを纏った彼等をみてわたしたちはただ、お互い強く手を握り合うことしかできなかった。





















全中が終わり、それまでの慌ただしさが嘘のようにわたしの日常は落ち着きを取り戻した。相変わらず部活はハードそのもので、部内に漂う決して良いとは言えない雰囲気の変化こそ否めないものの、こうして一人机で呆ける時間があることに嬉しさを覚えてしまう。

ただ、イヤと言うほど感じてしまう距離感がわたしを雁字搦めにしていた。誰が、誰と、なんてレベルじゃない。これまで何の隔てもなく、絶妙な距離感で関わることのできていたキセキの世代と呼ばれる彼ら全員と、だ。






(なんか、嫌な感じだ)





全員での二連覇を機に、ただでさえ注目を集めていた彼らの周りには、以前よりもたくさんの人が集まるようになっていた。それは主に憧れや好意、さらには興味だったりと、色々な感情を持ったものが。

ちらりと視線を左右に向ける。左隣では頬を赤らめたどこかのクラスの女の子が調理実習で作ったケーキを目前の人物へと渡し、差し出されたそれをすぐさま頬張りへらりと笑みを浮かべる紫原。





「あの、おいしい?紫原くん」
「んー、うまい。ありがと。」







全中が終わってからというものの、誰もが見えない壁を作っているように感じる。紫原は……まあ、普段からよく女の子からお菓子なんかは受け取ってるし、目が合えば話だってする。それでも感じる違和感は拭えないけど、今すぐ追及する必要は無いだろう。

それよりも、だ。ちらりと右隣に視線を寄越す。わたしたちの間に出来た見えない壁、何よりもそれを全面に出してきたのが、わたしが一番信頼を寄せている黄瀬であることが、わたしにとっては苦痛でしかないのだ。






「黄瀬くん!今日、よかったらお昼一緒にたべない?調理実習で作ったロールケーキもあるんだけど!」
「ロールケーキっスか?いいっスね、じゃあ、お邪魔させてもらおーかな」
「え!わたしも一緒にいいかな?!うちのクラスショートケーキだったんだけど…!」






別に、黄瀬が女の子と関わることが嫌なわけじゃない。たしかに、自惚れなんかじゃなく黄瀬とはお互い素でいられて他の誰よりも特別親しい仲だと思う。けど、彼はわたしのものではない。だから、黄瀬がわたしではない誰かとお昼を食べようが女の子と会話をしようが、文句なんて言わないし、言う権利もない。ただ、どうしても胸に引っかかる何かがある。








「黄瀬くん、柴田さんとケンカでもしたの?」





真隣で交わされる会話の中に出てきた自分の名前に思わず身を固める。……ケンカ?いや、まさか。そんなものまったく身に覚えがないし、むしろ全中が終わってからそう目立った会話すらしてない。なんでかって、黄瀬が一向にわたしの目を見ようとしないからだ。

今だってわたしを一瞥するだけで、微笑むこともなければ言葉を投げかけてくることもない。再び女の子に向き合った黄瀬は、なんでもないっスよ。と小さく笑って席を立った。

愛想のいい笑みを浮かべた彼は、今にも倒れるんじゃないかと言うほど興奮した女の子数人を引き連れて教室を出ていった。残されたわたしはといえば「柴田さん、黄瀬くんにフラれたのかな」聞こえてきたそんな声に微かな苛立ちを覚える。





「あの子も結局、黄瀬くんがモデルだからつるんでただけなんじゃないの?」
「あ、それでフラれた、みたいな?」
「ありえるわー」



……なるほど、周りからはそう見えるのか。以前の黄瀬はこうして寄ってくる女の子を軽蔑し、軽視するような発言が多かった。友達または彼氏がモデルと言う特別な地位を欲し、顔だけで群がってくる馬鹿女、と。

わたしと出会ったときだって、彼はそれで苦悩をしていたんじゃなかっただろうか。それが、どういう風の吹き回しなんだろう。今では不自然なほど、自らその中に飛び込んでいるように見える。

気でも変わったのか、それともわたしに彼をそうさせる原因があるのか。彼にとってはもう、わたしは必要ないんだろうか。だとしたら、わたしはどうするべきか。これまで一番近くに居てくれた黄瀬と会話もせず、目を合わせることすらしなくなるのだろうか。……さすがに耐えられる気がしない。






「……しばちん」
「…ん、どーした」




わたしと黄瀬は、これからもずっと、親友。そう、だよね。

ぐるりと胸に渦巻くイヤな感情を隠すように両手で頬杖をつき、左隣から呼びかけられた名前に反応を示す。目線の先では紫原がイチゴを長い指で摘み、口へと運び咀嚼を繰り返している。ほお、お楽しみは最後に取っておく派か。ぼんやりと眺めていれば、嚥下をし終えた紫原の射抜くような強い瞳に捕らえられる。

最近どうも、この瞳を向けられる回数が多くなった。みているこっちが脱力してしまうようないつもの眼差しとは正反対の、思わず息を飲んでしまうようなそんな瞳。



なに、と言葉にするよりも先に、へらりと笑みを浮かべた彼は口を開いた。
ひどい顔をしてる、と。彼の長い腕を伸ばされれば、いとも簡単にわたしの頬に触れる。




「……紫原、」
「んー、なに?」



何が、可笑しいの。目前の人物に確かに抱いたのは嫌悪感で。伸びてきた長い腕を反射的に軽く弾けば、つまらないといった様に眉を顰め、ギロリと鋭い視線を刺される。それに負けじと視線を交わらせ続ければ、紫原は弾かれた手を引っ込めてじいっと見つめた。
人目の多いこの場で必要以上に触れられるのは勘弁してほしい。し、なにより、わたしにはなんで紫原が楽しそうにしてるのか全くもってわからない。






「ついに黄瀬ちんに愛想尽かされた?」
「……なに、言ってんの」
「あらら、違ったー?しばちんがそうやって誰にでもいい顔するから、黄瀬ちん呆れたんじゃないの?」





頭に血がのぼる感覚に、無意識に握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛かった。…愛想をつかされた。何より否定できないその言葉に、喉の奥が灼けるようだった。





「紫原、最近やたらとわたしを目の敵にするね。わたしが誰にでもいい顔してるっていうなら、それはただの勘違いだよ。……苛立ちすぎだよ、紫原。」





ガタン、椅子を引いて席を立ちそう呟く。これ以上会話をしていたら、また何かが拗れてしまいそうで嫌だ。最近はただでさえ何をするにしてもわたしを目の敵にするようになった紫原と、上手いこと会話をすることができない。普段なら紫原のこんな言葉もさらりと流すことができるけど、今のわたしはよほど余裕がないらしい。わたしの言葉にさっきよりも眉根をキュッと寄せた彼を置いて早々と席を離れる。怒りを露わにした紫原の表情は、とても見れたものではない。それから一度も紫原に視線を向けることなく、教室の扉へと足を動かした。


食欲もないし、この状況で黄瀬と紫原に挟まれて授業を受ける気にもなれない。となれば、保健室に行ってふけるか。今の時間なら先生は職員会議で留守なはずだし、ベットに潜り込んでしまえばこっちのもんだろう。わたしも随分悪くなったものだと自嘲気味に廊下へと足を踏み出せば、視界の隅に映ったのは明るい茶髪の頭に囲まれた黄色の頭だった。

……なんだ、まだそんなところにいたのか。なんて、とぼとぼと足を進め心の内で深く深く落胆した。


保健室に行くためには彼の横をイヤでも通らなければならないのだ。ただ、こないだまで会話をしていた黄瀬にいないものとして扱われるのも、わたしを一瞥し、何事もなかったかのように瞳を逸らされる事ももう避けたい。ただ、通り過ぎるだけ。大丈夫だ、何も気にすることはない。









「黄瀬くんっ、これあげ、」
「わ、」








ばくばくとやけに早く鼓動を打つ心臓を抑え、眩しい金髪に目を向けることもなくその隣を通り過ぎようとすれば、彼の周りを取り巻く女の子の一人に道を塞がれ、咄嗟の判断も出来ずそのままお互い身体をぶつけてしまった。

いけない、謝らなければ。




「ご、ごめんなさ」





謝罪の言葉を述べようと下に向いていた視線を上に向ける。その瞬間、どくんと心臓が再び大きく打ち付け、口から発せられるべき言葉は徐々に小さくなり、終いには空気の中に消えていった。視線を上げた先にいたのはわたしが今最も顔を合わせることを避けたかった黄瀬で、動揺しているのは少なからずわたしだけではないらしい。微かに眉根を寄せ微かに見開かれた目、口をへの字に結んだわたしを見下ろす黄瀬も、たしかに動揺の色を表していた。





「……大丈夫っスか?」




黄瀬が発した言葉は、わたしに向けられたものではない。彼の金色の瞳が向かったのは
大袈裟に肩を抑えた茶髪の女の子で、なにを残念がっているんだろうと、心の中で自分に悪態を吐く。心配をしろなんて、そんなことを言いたいわけじゃない。ただ、その眼を逸らすことだけはしてほしくなかった。







「ちょっと痛いけど大丈夫!黄瀬くん優しいね!」






頬を赤く染め、嬉々としてそう笑顔を浮かべる女の子に黄瀬はやんわりと笑いかけた。わたしはといえば、どこか冷め切った脳みそでその光景を眺めていた。

ああ、もう。ただ通り過ぎるだけ。なんでこんなこともスムーズに出来ないんだろうか。……どうも、わかりやすくて参る。こんなの、まるで生殺しじゃないか。




黄瀬の周りで甘ったるい香りを振りまく女の子たちも、それをわたしに見せつけるかのように全て受け入れる黄瀬も、目に映るすべての光景に心を抉られる。耳をつんざくような女の子たちの高い声にたしかな嫌悪感を感じ、黄瀬へと背を向け歩き出す。






黄瀬はわたしのものじゃない。この茹るような感情の高ぶりも嫌悪感も、わたしが彼に抱いた勝手な依存心が原因なんだ。むしろ、彼がこうして人当たり良くファンと交流しようとしているのは応援すべきじゃないだろうか。彼はいつだってわたしを優先して、助けてくれた。……うん、そうだ。これを機に、わたしも彼に頼らず自立することにしよう。






「(これで、黄瀬を自由にできる)」





瞼を伏せ、再び眼を開く。足は止まることなく保健室へ向けられ、人目も気にせずに深い深呼吸を2回。よし、大丈夫だ。





「うぉっ、!」





そう思った瞬間、後ろから強く腕を引かれ自然と身体が動きを止める。前を向いていた身体は強く引かれた勢いで伸ばされてきた腕の持ち主と向かい合う形に、そして半ば強制的にその人物と視線をかち合わせる事となり、その威圧するような瞳に思わず息を飲む。





「……なに、紫原」





得体の知れない緊張感を胸に潜ませ、絞り出すように目前の人物の名前を呟いた。相変わらずわたしを見下ろすその瞳は冷めたもので、そんな様子に眉を潜めて拒絶の色を全面に示し、睨みつけるように見上げてやる。

それを感じ取った紫原はぴくりと眉根を寄せ、苛立った様子で手のひらに力を込めた。馬鹿力め、痣になったらどうしてくれるんだ。手首がぎりぎりと音をあげるように締め付けられ、表情を歪めたわたしをみて紫原は口を開く。






「ね、慰めてあげよーか」
「………は、なに、?」





押さえつけるような威圧的な雰囲気を漂わせる紫色の瞳に、一瞬息をするのも忘れてしまう。彼の大きな手に腕をがっちりと掴まれ、ここから逃げ出すことはもう不可能だと思い知らされたわたしはただただ次の言葉を待つしかなかった。……慰めるって、コイツはいつから見ていたんだろうか。





「、え、ちょっと…!紫原…!!」





ぐん。と腕を強く引かれ、なんの前触れもなく紫原が歩き出した。いきなりのことに拒否することすら出来ず狼狽える。いくら踏ん張ろうとしても勢いのついたこの状況ではそんな抵抗も虚しく、ただただされるがままに紫原の大きい背中を見つめた。


ただでさえ身体の大きい紫原は視線を集めやすく、それに加えて誰が見てもわかるであろう紫原から発せられる威圧感たっぷりのオーラ。そしてそんな紫原に手を引かれる、ひどく困惑し狼狽えるわたし。様々な要因が重なって、廊下にいた生徒は興味ありげにわたしたちを眺め、その視線が余計にわたしの心中を乱していった。

わたしより幾分も長い彼の歩幅はわたしにとっては走るも同然で、せめてもの転ばないようにと足を必死に動かせば、そんなわたしに振り返り、いつもの気怠げな瞳で見下ろされた。






「どーせサボるつもりだったんでしょ?屋上か保健室で。…まあ、いまのこの季節じゃあ保健室しかないでしょ。」





わたしを見下ろし低く呟く紫原の声に、頭の中で危険信号が鳴るようだった。意味が、わからない。ただ、すごく嫌な雰囲気を感じる。怒ったのだろうか。さっきの、わたしの言葉で。





「だ、だから、なに」
「……はあ?」



もつれそうになる足を必死に動かせば、それに連動するように息が上がっていく。自分のものとは思えないカサついた声も、汗ばむ手も、今ではなんの気にもならない。いつもの穏やかな紫原は、どこに行ったのだろう。目前の人物に対して微かな危機感を抱いたことはあっても、ここまで確かな危機感も恐怖も、抱いたことなんて一度もなかったのに。

……やばいかもしれない、焦りと不安が胸に蔓延り頭をフル回転させる。どうしようどうしよう、とりあえず冷静になろうと息を吸えば、オレも行くんだけど、とさぞ不機嫌そうに呟いた紫原の言葉に冷静さなんてもう持ち合わせることもできなくなった。

一気に血の気が引き、掴まれた紫原の腕を必死に引き剥がそうとする。………冗談じゃない。






「や、やだ、行かない。離して、」
「……ねえ、うざいから黙っててくんない」






黙ってろ、だと?保健室に先生はいない。だれか生徒がいれば話は別だけど、もしいなかったら?今のこの状態で紫原と二人になれば、何が起こるかなんて簡単に想像できてしまう。今迄だってそうだったんだ、これが嫌がらずにいられるだろうか。

しかしどんなに嫌がろうと、バスケ部でスタメンをはるコイツに、ましてやこの巨体をもつ男に力でかなうわけがない。自分の意思に反して進み続ける足に対してこれは本当にわたしの足なのかと疑問を抱けば保健室はもう目前に迫り、乱暴に扉を開けた紫原の後を追うようにわたしも室内へと足を踏み入れた。



しん、と静まり返る室内はわたしと紫原の足音だけが響き、それがまたさらにわたしの恐怖心を煽る。……いや、もしかしたら、鐘が鳴って先生が戻ってくるかもしれない。もしかしたら、だれかが休みにくるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていれば紫原の手がわたしの腕を離れる。解放されたと喜ぶ間も無く、それと引き換えにわたしの身体はベッドに捨てられるように倒され、バランスを崩したまま瞬時に起き上がることのできないわたしの身体を紫原が跨ぐように乗っかった。




ベッドのスプリングは二人分の体重に軋み音を上げ、冷たく見下ろしてくる紫の瞳はわたしの小さな希望も打砕いた。


ああ、もう逃げられないのだと、チッと小さな舌打ちを零した。











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