残散華 7 あれ、と名の足が止まった。夜も大分更けてきた宿の大広間から微かに灯りが漏れている。 こんな時間に一体誰がいるのだろう。平助と街まで山南の後を追って行った時間は一時間もない。その間に誰か帰ってきたのだろうか。不思議に思いながらそーと一番端の襖を開けて中を覗いた名は、そこにいた意外な人物たちに目を瞬かせた。 「原田さんと…永倉さん…?」 思わずこぼれた声に振り返った二人は名の姿を見とめると、よおという風に手を挙げる。 「名じゃねえか。どうした?こんな夜遅くまで」 「いえ、ちょっと明日の仕込みを……」 名は咄嗟に嘘をついた。何となく、山南のことも自分が彼を追いかけて行ったことも彼らに話すのは躊躇われた。話題を逸らすようにすぐに言葉を継ぐ。 「それより。二人とももう戻ってこられたんですか?花街から帰るにしては早い時間だと思うんですけど……」 名の意図には気づかなかったらしい。「あー」と言葉を濁した彼らはバツが悪そうに頭をかいて目を反らす。 「いや、適当に部下の奴らに任せて金だけ払ってきたんだけど、…なんつーか、気が乗らなくてよ」 「新八の奴にしてはめずらしいだろ?『女と飲む気分じゃねえ』って」 「左之〜めずらしいは余計だろ。俺だってそんな気分になる時くらい―――」 「本当ですね。めずらしいですね」 「おい名同意すんじゃねえ!」 頬を赤くさせて喚く永倉には構わず原田は傍らの徳利を軽く掲げてみせる。 「ま、そんなわけで。俺らだけで飲み直しだ。どうだ、名も」 「あー私は………いえ、いただきます、少しだけ」 暫く迷った末、名は原田の誘いを受けることにした。どのみち寝られる気分ではない。幸いかな、酒には強い方だし、何をするでもなく盃を傾けるのも悪くないだろう。 そうは思ったものの、原田と永倉が二人揃って面食らったような顔をして名を見つめてくるものだから、なんとなく気まずくて先程の二人と同じように目を反らす。まあ無理もない。名が酒の誘いを受けることはかなり珍しいことなのだ。 「今日は、そういう気分なんです」 一語一句強調するように言えば、やっと彼らは破顔して盃を名に差し出した。 盃を傾けるペースは皆早かった。名は半ばやけ酒のように淡々と酒を呷り続けたし、原田も永倉もペースこそ名と変わらないがおそらく飲んだ量で言えば名のそれより多い。自然と、合間合間に交わされる会話は愚痴が中心になった。 「だいたいなんだよ!?戦になった途端総大将が真っ先に逃げ出すなんざありえねえだろ」 「同感だぜ、新八。全く前代未聞だ。おかげで平隊士どもの士気は下がるし土方さんはあんな調子だし、散々だよ、こっちは」 「ま、慶喜公は元々尊攘派の急先鋒、水戸藩の生まれだからな。薩長の奴らが掲げた錦の御旗にブルッちまったんだろうぜ。敵から見るとあんな御しやすい大将もねえよな」 「それでも、だ。尊攘派だろうが佐幕派だろうが関係ねえよ。命懸けて戦ってる家来見捨てて逃げ出すなんざ、腰抜け以外の何者でもねえ。薩長………特に長州の連中はお取りつぶし寸前だったところを死に物狂いでここまで持ってきた連中だ。それに引き換え幕府ときたら………、戦う前から負けちまってるじゃねえか…!」 次々と吐き出される言葉の端々に彼らの憤りと無念を感じる。それに黙って耳を傾けながら、名もまた盃を呷った。 そうだ…この世はあまりに後悔が多すぎる。もしこうであったなら。もしこうしてくれていれば。自分にも他人にも、いつも、何でどうしてと憤らずにはいられない。 「………この先、一体どうなっちまうんだろうな。薩長の銃相手じゃ刀や槍はたかが知れてるし、近藤さんもまだ戻ってはこねえ。………八方塞がりったあこのことだな」 力なく笑う永倉の声を最後に会話が途切れる。酒を注ぐ音と盃と徳利がぶつかりあう音だけが響くその沈黙を破ったのは原田だった。 「で?おまえはどうなんだよ、名。何か嫌なことでもあったか?」 「…は?」 「は?じゃねえよ。どう考えても飲むの早すぎだろ、らしくもねえ」 「あ、いえ…これは………」 「ま、言いたくないなら言いたくないでいいけどよ。勝手に一人で抱えこんで無理するなよ?ちゃんと俺たちを頼れ。今更遠慮すんな」 「そうだそうだ、水くさいぜ、名ちゃん!どーんと大船に乗った気持ちで俺らにまかせときな!」 「ゎ…」 いうやいなや、永倉の逞しい腕が名の肩にズシッと回される。お、重い…。 「あ、あの…永倉さん酔ってますよね?」 「あ〜?何言ってんだ。まだまだー」 「ちょ、のしかからないでください!酒くさいです重いです!」 「ツレねえこと言うなよ〜」 ぐりぐり肩口に頭をおしつけてくる永倉はどう考えても完全に出来上がっている。一瞬本気で張り倒そうかと思ったが、名の手が動く前に肩からずり落ちた永倉が膝の上に収まっていた。 「ね、寝てる…」 膝の上に仰向けに横たわった永倉は実に気持ちよさそうにいびきをかいていて、大口を開けた寝顔にガクッと力が抜けた。 私の膝は枕じゃない! 「原田さん、笑ってるなら助けてくださいよ…」 ぷるぷる笑いを堪えている原田に恨みがましい視線を向ければ、わりぃわりぃと全然反省してなさそうな返事が返ってくる。 「いや、なんつーかいろいろおもしろくてよ」 「もう…」 むくれる名に笑った彼は盃を床に置くと、つ…と距離を縮めて名の横に座った。 「おまえさ、名。ほんとよく表情変えるようになったよな。最初はものすごく無表情だったんだぜ?おまえ」 名の顔を覗きこんだ原田はそう言って柔らかく眦を下げる。どうやら彼も相当酔っているらしい。 「そう、ですか?」 「ああ、ほんと可愛げがなかった。いや、可愛げがないところが可愛かったな」 どっちなんだと思いつつ、大きく頷く原田の顔がひどく真面目で思わず笑みが零れる。 「それは自覚なかったですね」 「そうだろうな。ん…やっぱそういう顔の方がいいぜ。おまえは笑ってろよ。その方が俺はずっと好きだ」 ぽんぽんと頭を撫でる原田の手は大きくて温かくて、なんだかひどく心地いい。酒のせいもあるだろう、ふわふわとした綿菓子の中にいるような気分だった。ふっと目を細めて引き寄せられるままに原田の肩に頭を預ける。 本当に今日は励まされてばかりだ。ひどく照れくさくて、そして、嬉しくて仕方がない。 自然と緩む口元を指摘されて先ほどの永倉のようにぐりぐりと頭を押しつければ、猫みてえと笑われた。 [*前へ][次へ#] |