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残散華


千鶴がその声を聞いたのは、夕闇の中遥か彼方に、けれどもうはっきりとした大きさで大坂城が見えてきた時だった。
橋本から大坂へ。撤退を続ける敗軍からは、一人、また一人と兵の姿が消えていっている。彼らが死んだのか、それとも脱走したのか寝返ったのか。そんなことは誰にもわからないし気に留める者もいない。ただ確かなのは、もう今の軍の指揮官たちに兵を統制し管理するだけの力は残っていないということだった。しかし、それでも新選組は比較的安定していた。脱走兵はいないし、幹部の目が隊士一人一人に届いている。憔悴したこの軍の中ではもっとも秩序だった集団の一つだった。
けれど、この宿営地で、誠の旗のもとに集う隊士たちが必ずしもいつも通りであるかと聞かれればそうではない。
―ここには、名ちゃんも井上さんもいない………。
新選組は、淀千両松で隊の三分の一を失った。特に、撤退命令後、その場にとどまり旧幕府軍の盾となった井上率いる六番組は全員が行方知れずだ。
今までずっと隣を歩いてきた人が、前を歩いていた人が、後を歩いていた人が、いない。
隣にいない。前にいない。後ろにいない。どこにも―――いない。
その事実が、空を覆う黒い雨雲のように隊士たちにのしかかっている。漂う空気は、とても重い。
―ねえ、今……どこにいるの?
―どうか、無事でいて…!
もうすぐ、橋本の宿場を捨てて最初の夜が来る。近づく闇の中、どうかどうかと願いながら、負傷兵の間を走り回って看護に当たった。剣を握っても役立たずどころか足手まといなことくらいわかっていたし、それならば自分にできることをと考えれば、やはり医者としての仕事しか思いつかなかったからだ。京都にいたころから松本先生にお願いして、定期診断の時くらいではあったが、少しずつ医学の知識を得ていったことがここにきて生きてきている。何より、山崎が動けない今、新選組の医療事情は全て千鶴の腕にかかっているといってよかった。
そう、山崎が負傷したのだ。それも、かなりの大怪我を。
詳しい事情は知らない。千鶴は戦場に出ていたわけではないからだが、だからこそ戦いの激しさは想像を絶するものだったに違いない。その戦いの、まさに新政府軍の猛攻に味方が総崩れとなる中、山崎は土方をかばって重傷を負ったという。そして、土方は―――。

「―――!おいッ!あれは……!」

その時である。茜に沈みゆく宿営地がにわかにざわめいたのは。次から次へと人に伝播し、さざ波のように広がっていくそれに千鶴は思わず敵襲かと身を固くした。しかし、よく聞いてみればどうもそうではないらしい。
そして、聞こえたのだ。その声が。その、名が。

「姓伍長!」

姓伍長だ。姓さんが。戻ってこられたぞ。生きておられたのだ。生きて…………。

え、と千鶴は耳に届いた言葉を反芻した。
―…名ちゃんが…?生きて……?
―生きて………。
千鶴はゆっくりと振り返った。振り返った先に見慣れた影が立っていた。はっきりと、視線が交差して。そして、斜陽を浴びた彼女が少し首を傾げながら破顔したのがわかった。
「あ……」
しっかりと二本の足で立ったそのひとが、傍らの会津兵と思しき人に深々と頭を下げる。一つ頷いて去っていった背中を見送って、彼女はゆっくりとこちらへ足を踏み出した。
風に揺れる長い黒髪。まっすぐに前を見据える紺碧の双眸。隊服は、元の色も、だんだら模様もわからないほど血に染まってボロボロで、顔もひどく汚れていた。
けれど、それでもそのひとは―――。
「、名ちゃん!!」
今度こそ、千鶴はそのひとの名を呼んだ。先ほどまで重く全身にのしかかってきていた疲れなど吹き飛んで、ただ自分の全力を出して走る。名は少し驚いたようだった。目を数回瞬かせ、それから、すぐに笑って両手を広げた。
「名ちゃん!名ちゃん!」
「千鶴、ただいま」
脇目も振らず、周囲の視線などかえりみず、千鶴はまっすぐに名の腕の中に飛び込んだ。名がここにいることを確かめるように、自分より少し高いその体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。この体温が、ここにあることが嬉しい。抱きしめ返してくれる腕が、ここにあることが嬉しい。
嬉しい。そう思うのに、両の瞳からはボロボロと雫が零れおちていく。それを止める術など知らなくて、ただ流れる涙をそのままに、声を押し殺して泣いた。千鶴をあやすように背をさすってくれる手が優しくて、「ごめんね、でもちゃんと、戻ってきたよ」と待ち望んでいた声がまた涙を溢れさせていく。
「よかっ、た……本当に、よかった…!」
千鶴の声にこたえるように、抱きしめる腕が強くなる。
やはり止まりそうにない涙に、千鶴はしばらく、名の胸の中で泣き続けた。





ばたばたと駆け寄ってくる足音に視線を上げる。辺りの空気がピン―と張りつめたものに変わり、なんとなく誰だか想像がついた。けれど、早鐘を打つ心臓は痛いほどで、指一本動かすこともままならない。結局、姿勢を正すことよりも彼らを視界におさめる誘惑に負けて、千鶴を抱きしめたまま名は彼らを迎えた。
「名…」
目線の先の彼らが全員一様に驚いた顔をしているものだから、もう少しバリエーションはないのか、などと考えたのは常に冷静な頭の片隅の自分である。
そういう自分は、果たしてその時どんな顔をしていたのか?聞いてみたことはない。
ただはっきりと憶えていることがある。その時、思ったのだ。
ああ、帰ってきたのだ―――と。

新選組に、この場所に戻ってこられたのだと。

斉藤は、常の無表情が影を潜めて、心底安堵したように息をついている。
藤堂は、目を輝かせて、彼の生来の明るさそのまま笑っている。
原田は、やれやれと溜め息をつきつつ、頬の緩みを抑えきれていないようだ。
永倉は、ニカッと効果音が付きそうな晴れ晴れとした笑みである。
山南は、ただ穏やかに笑って、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「名……よく、戻った」
土方は、笑おうとしているのだが、なぜか眉間の皺が三割ほど増えていた。

帰ってきたのだ。

胸を押し上げる感慨に唇を噛みしめ、名はただ、この輪にいる幸せを噛みしめるように目を伏せた。



幹部たちとは、太陽が沈み、辺りが完全に闇に沈むまで話をした。
名が隊を離れていた二日と半日は、新政府軍に追われ、追撃を避けながら味方の軍隊を探し彷徨った時間ということで納得されているらしい。「大変だったな」と労われて深くは追求されなかった。もとより龍神の眷族となり寿命が縮まったことは話さないつもりだったのだが、それでも嘘を吐く苦しさをあまり感じずに済んだことには正直ホッとしていた。
それから、井上の死に立ち会ったことを話した。懐紙に包んだ井上の遺髪と小刀を取り出せば、皆、ある程度の覚悟はできていたようだ。驚く者はおらず、ある者は天を仰ぎ、ある者は拳を握りしめ、またある者は赤黒く凝固した血のこびりついたその遺品をじっと見つめていた。そして、井上の遺言とともに渡したそれらを土方は黙って受け取ったのだった。井上の遺髪と小刀は近くの寺に埋葬されることになった。



一月六日の夜が過ぎていく。
数えるほどの篝火に照らされた闇の中で井上の葬儀が執り行われた後、名は新選組の被害を知らされた。それは名の知る歴史通りであり、名の予想していた以上のものだった。


『隊士の三分の一以上が死亡、もしくは行方不明。』
『井上が組長を務めていた六番組は殿を務めた結果、恐らく全滅。』
『監察方の山崎が重傷を負い、戦線を離脱。』

そして、

『副長・土方が変若水を呷り、羅刹化―――。』




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