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残散華

第五章『足掻く者―新型羅刹―』

―――淀千両松。
一面の湿地に築かれた堤防にはズラリと松が植えられている。豊臣秀吉が植えたといわれるこの松は、そのあまりの見事さからいつしか千両松と呼ばれるようになった。
ズプズプと足が沈みこむような湿地は、攻めにくく、守りやすい。足元が定まりにくい地では組織的な軍の展開はしにくく、新政府軍の新兵器もその本来の威力を発揮することはできないだろう。まさに、布陣するに最適の場所だった。
旧幕府側の予想通り、明朝から始まった戦闘は旧幕府軍の有利に展開する。新選組や会津藩の別選隊の果敢な斬り込みによって、新政府軍の死傷者数は確実に増えていった。しかし、やがて福田侠平率いる奇兵隊が橋頭堡を確保すると、形成は一気に逆転。攻撃の起点を確保した新政府軍が弾丸を雨霰と浴びせかけ、旧幕府軍の兵は次々に倒されていった。奮戦していた新選組の隊士たちもじりじりと後退せざるをえず、ついには総崩れとなって淀城へと撤退を開始した。絶え間ない砲声、怒号、悲鳴、呻き声。蔓延する血と硝煙の臭い。渾沌とした戦場に名が辿り着いたのは、ちょうどその時であった。


目に入ったのは、地をうごめく夥しい数の人間の影だった。
平地に突き出た淀城の天守閣を目印に宇治川沿いを走り続けた名は、煙る視界の中に泥にまみれた浅葱色を見つけた。懐かしいその色にほっと口元をゆるめたのも束の間、つんざくような銃声とともに血飛沫をあげて倒れ伏した人影に思わず息を詰める。
「…っ!」

―――……なんだ、これは……?

くるくると回転しながら倒れていくその人の横顔を、名ははっきりと見ていた。瞼の裏にその残像が何度も甦っては消えていく。口の中がからからに乾いていた。体中の器官が同じ情報を訴えているのに、脳はその処理を頑なに拒んでいて、上手く理解できない。名は立ち尽くした。そして、次の瞬間悲鳴を上げて駆け出した。
「―――、ぃ…井上さんッ!!」
上品な皺が刻まれた見慣れた横顔が泥の中に沈んでいた。血の気を失った顔を抱き上げて、傷口を見て、名は絶望した。弾丸は下腹部から内臓をめちゃくちゃに掻き回して背中へと貫通していた。致命傷だ。もう助からない。目の前が真っ暗になりかけたそのとき、微かな呻き声とともに瞼が上がった。井上は瀕死の状態ではあったが、それでも名を視認することはできたらしい。わずかに目を見開き、それから、あのいつもの穏やかな表情を浮かべた。
「…あぁ、姓、君……。無事だったの、かい…。よかっ、た…」
「ぃのうえ、さん…」
「すまない、ね……っ、無様な姿を…見せてしま、って、……!」
一言一言紡ぎだすたびに、井上の唇から真っ赤な血が滴り落ちる。真っ赤な血が滴るたびに、命が流れ出していく。
井上の体を掻き上げた手がみっともないほど震えていた。その震えを止める術を、名は知らなかった。
―ダメです。ダメだ。死んじゃダメだ。でも、どうやって………。
視界が真っ暗になるかわりに、地面が頼りなく揺らぐ。呆然と唇を震わせる名を見て、井上は優しく眦を下げた。それと同時に、信じられないくらい強い力が名の腕をつかんだ。
「姓、君…。…っ、トシさんに…伝えてほしい。……力不足で、申し訳ない。最後まで…ともに在れなかったこと…を、許して…欲しぃ……!こんな私を、京まで…ぃっ緒に連れてきて…くれて……最後の…夢を…!みさせてくれて…っ、感謝しても……しきれない、……とね」
それじゃまるで遺言みたいだと名は思った。でも、遥か彼方の懐かしい日々のように、歳だ歳だと笑う彼に茶々を入れることなんて、できなかった。「そんなの……自分で言ってください」という消え入りそうな声は、井上の困ったような笑みに霧散した。
「……最後にもう一つ…頼みを、聞いてくれないかい?………姓君…っ、トシさんを…頼む……!!そして、君は…どうかっ、生き延びてほしい…。誰のためでもいい…必ず、生き延びるんだ……!いい…ね……?」
そう告げて、井上は微笑んだ。いつもの、あの穏やかな笑みだった。
――――それが、最後だった。安堵したかのように口元を緩めた井上の瞳から、溶けるように光が消えていく。腕が、力を失ってずるりと滑り落ちる。
「ぁ……いのうえ、さ……」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「ぅあ……ああッッ……!!」
今度こそ、世界は真っ暗になった。自分のいる地面だけが急速に落下していく。井上の体から急速に失われていく、生きている証が、その欠片が、刃となって名をずたずたに引き裂いた。
井上は名にとって父のような存在だった。荒くれ者の人斬り集団が一つの組織として戦ってこられたのも、井上という間に立つ人がいてくれたからで、それは、突然新選組という組織に放り込まれた異分子である名にとっても同じことだった。この世界で初めて会ったのも井上で、慣れない生活に苦労する名を手伝い、組織との距離を測りかねていた名に助言をくれたのも井上だった。まったくの赤の他人ではあったけれど、井上は名を娘のように大切にしてくれたし、名も井上を父のように慕ってきたのだ。
「……いや、だ…!、ぃのうえ…さん……ッ」
体の内側から溢れてくる熱いものが瞼の裏を焼き尽くして頬を濡らす。自分がどうやって呼吸しているのかもわからないまま、名は骸となった井上の胸に顔を埋め何度もその人の名を泣き叫んだ。赤く染まった浅葱が滲んでぼやける。ただ一人のかけがえのない人の死が目の前にあって、名の世界のすべてが井上の死に覆い尽くされていた。
だから、気づかなかった。
硝煙の弾幕の向こうから確かに近づいてくる、錦の旗を掲げた大軍の影に。


『生きろ。』


その声を果たして自分は聞いたのか、否か。脳裏にはっきりと閃いた言葉が名の意識を引き戻した。そして、自分が泣いているのだとわかった時、視界を覆う真っ暗なものが涙に流されていった。
顔を上げる。鮮明な視界に目の前の影を映す。

『生きろ。』

もう一度、声が響いた。
圧倒的な権威を振りかざして、敵が迫ってくる。錦の御旗を、高らかに掲げて。ぎりっと血の味が滲んだ。噛みしめていた唇が切れたのだと後で気づいた。
それからの名の行動は早かった。井上の小刀で遺髪を切り取り、懐紙に包んで懐に仕舞う。小刀を腰に、浅葱の隊服を身に纏う。己が、新選組の隊士である証だ。敵方との距離は50メートルもない。向こうもそろそろ気づいたはずで、当然、最新銃火器の射程圏内だった。
あと少しでも気づくのが遅かったなら、銃弾は正確に名の体を貫いていただろう。銃声が響くと同時に名は地を蹴った。足元で泥が撥ねる。けれど振り返らない。力を脚に集中させると跳ねるように湿地を移動していく。そして、先行する新選組本隊を追って、旧幕府軍を追撃する新政府軍の陣形をかいくぐるようにして、千両松を、混沌の戦場を脱出した。
戦場を抜けても、名は淀城を振り返らなかった。淀藩は裏切る。それは歴史の真実であり、もはや期待はしていなかった。
目指すは、橋本―――。



実際、淀藩は城門を閉じ、四日とは打って変わって旧幕府軍の入城を拒んだ。この裏切りにあった旧幕府軍は、憤慨しながらも新政府軍の追撃を受ける中状況を好転させることはできず、橋本へと退却。しかし、橋本の一戦でも津藩の裏切りにあい、ついには橋本を放棄して大阪城へと退却した。それが、鳥羽・伏見の戦いの顛末である。畿内の多くの藩は新政府軍への恭順を示し、戦いの拠点を失った旧幕府軍はひたすら退却せざるを得なかった。



鳥羽・伏見の戦い。
この戦いにおける諸藩の裏切りは幕府権力・権威の完全なる失墜であり、泰平の260年間を振り返れば考えられないような出来事だった。しかし、名にはそんなことどうでもよかったのだ。新選組という末端組織の一兵卒に過ぎない名にとっては、撤退の道筋を生き抜くことがすべてだった。周りを囲むすべての藩が決して味方ではないのだということがすべてだった。いつ、どこで、どこから攻撃されるか、何の保証もなければ何の対抗手段もない。血の匂いを纏って、名は奔った。千両松の松の合間に、橋本の宿場の街に、白刃がきらめいて瞬く間に消え去った。





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あきゅろす。
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