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残散華
17

梢の間から洩れる夜空の明かりが弱々しく夜の森を浮かび上がらせている。
闇の中で、名の荒々しい息遣いだけが響いていた。
カラン…!と音をたてて手から刀が地面に落ちる。それに目をやることなく、覚束ない足取りで名は先刻まで寄りかかっていた木へと戻った。
ざくっと銀を地面から引き上げ、土を払って様子を確かめる。音からして、どこかの装飾にヒビが入ったのだろう。予想通り、銀の鍔の所々に亀裂が走っていた。だが、それ以上に目を奪われたのは―――。
「………なんで…」
銀の刀身。その美しい根元に、黒々とした線が刻まれていた。
銀は、今までどんな剛物と張り合っても、刃こぼれ一つ起こしたことがなかった。手入れをしなくてもいいとは、とよく羨ましがられた。なのに……。
ギッと歯を噛みしめる。なにかよからぬことが進行しているらしい、としか今はわからない。名は無言で銀をしまった。

チン…!という音と静寂。

そこで名は、初めて森の静かさに気づいた。

ふっと息が止まる。荒涼とした冬の景色が、その冷たさを余すことなく名の前に広げていた。どこまでもどこまでも闇が続いている。音のしない世界で、名はたった一人きりだった。
しん…と寒さがおりてきた。
ゆっくりと足元へ視線を落とす。
黒い物体が目に入った。
それが人の胴体だと気付くのに数秒を要した。
横たわる死体には首がない。ただ体形だけが、その人物が男であったことを示していた。

私が、殺した。

何の、躊躇いもなく―――。

「…ぁ………」
おそるおそる視線を動かす。
辺りには点々と黒い物体が横たわっていた。かつて呼吸をしていたモノ。かつて動いていたモノ。今は、呼吸せざるモノ……。
「…ぅ…あ……ッ!」
突然、猛烈な異臭が名を襲った。今まで、知覚していなかった分まで取り戻そうとするかのように、それは空気を澱ます音さえ伴って、名を苛んだ。
吐き気がこみ上げてくる。口を、鼻を、とっさに手で覆う。
しかし、口内に湧き出てきたのは、胃液だけだった。それ特有の苦い味と臭いに、今日はほとんど何も食べていなかったことを思い出す。
―最悪だ…。
ふらつく足を支えるため、必死に木に腕を突っ張りながら、名は頭を抱えた。
ある意味では、懐かしい味だった。
この世界に来て、初めて人を殺して以来、何度も吐くことはあった。その場でなくとも、後で思い返したり、一人になったりしたときに、胃の中のものをすべて吐き出した。平静を装いながら、吐き気を必死に押し殺して食事をすることだってあった。
それでも、その回数は次第に減ってゆき、割合も低くなって、いつしか、そんなことは忘れてしまっていた。戦場のことなど思い出したりもしなかった。
それは単なる慣れなのか、それとも自分にはそういう“素質”があったのか、それは定かではない。
だが、今は……今は、違う。
できるものなら内臓を口から引きずり出したいほど、激しい不快感が胸を押しつぶしてくる。何度も、何度も、まるで名を断罪するように。
そう思うのは。そう感じるのは……。
原因はわかっていた。それは、森に転がった音をわすれた死体でもなく、辺りを覆う澱んだ空気でもなく、ただあの、一方的な殺戮。
姓の力の解放。それに伴う、圧倒的な破壊への衝動。
自分は確かに抑え込む自信があった。そんな欲望には負けないと自らを戒めてきたはずだった。
なのに……抑え込むことすらしなかった。むしろ、強烈な解放感に、酔いしれていた。
新選組を侮辱されたとはいえ、恐れ慄き、尻尾を巻いて逃げるようならそれも構わないと思っていたはずだ。だが、実際の自分は、遂には背を向け逃げ出した男の背中に、追いすがり、斬りつけ、容赦なく首を飛ばしていた。
そう、確かにあの時の私は楽しんでいたのだ。あの刀を振るって人を殺す感覚を。


楽しんでいた。


「…………ふ……ははっ……は、あはは……」


「――………」


ぶらりと、音もなく腕が滑り落ち、揺れた。


戻れない。

あの世界にはもう戻れない。もといたあの、平和で退屈な世界には。

だってもうわたしは――――。


私は、ただの殺戮者だ。


真黒な血が頬を伝い落ちて、音もなく、大地に黒い染みをつくった。



―――――――。
――――。
――。
「………………行かなきゃ」
ポツリと呟いて、名は木から体を離した。
淀へ行かなければならないとわかっていたが、果たして方角が正しいのか、自信がなかった。ただ、この場所から離れたかった。できるだけ早く、できるだけ遠くへ。
それも、離れたいという願望ではなく、行かなくてはという義務的な言葉を口にして。

銀を掴み、名はふらふらと歩みを始めた。その足取りは、早くもなく、力強くもなく、不規則で不安定だった。




伊地知正治は、配下の兵とともに夜の森を行軍していた。
先頭を行くこの男は、左目に眼帯をつけていた。彼は馬上の人であったが、もし他の兵と同じように歩いていたのなら、その片足が不自由であることに気づいただろう。どちらも、まだ彼が『千石の神童』と称されていた時に患った大病によるものだった。いずれにしても、一団は百人にも満たないほどで、小さな塊をなしている。
彼は薩摩藩の軍奉行に任じられており、現在の薩長軍の指揮体制を考えると、もっと多くの兵を要求することもできたはずである。だが、彼が少数の部下しか率いていないのは、決して彼が薩摩藩内で軽んじられているわけではなく、彼自身の主義によるものだった。
少数精鋭主義。
兵法家としての伊地知正治はこの主義を徹底し、事実、先の薩英戦争でも大きな功績をあげていた。
長州藩と連合軍を形成する今も、長州で頼れるは奇兵隊のみ、と心に決めて、それを実行している。
そんな彼が、四方にはなった斥候からその報告を受けたのは、薩長軍の本体から離れ、別動隊として淀近くの森を通過している時だった。
『南十町ほど先に、戦闘の痕跡あり。遺体は全て敵軍のものと思われる。』
報告を聞いた彼は、幼いころの大病のとき、失明を免れた右目をぎろり、と動かした。
「戦闘……?」
彼は瞬時に自軍の配置図を頭に思い浮かべ、それを戦闘範囲の中で展開した。だが、どの軍もこの辺り一帯にかかることはない。それもそのはず。なにしろ、そうなるように陣を配置しているのだから。たとえ自軍の兵にも、彼の行動は目撃されてはならなかった。つまり、この行軍は、連合軍の最高機密というわけだ。
遺体の戦闘相手が自軍の兵でないとすると…旧幕府軍内の同士討ちか。
ならば大きな障害にはなるまい。「捨て置け」そう命じようと口を開きかけた時、彼の前に小さな小刀のようなものが差し出された。
「遺体の一人の胸に、この懐剣がささっておりました」
「………」
押し黙った彼は部下の手から懐剣を受け取ると、それをじっくりと観察し始める。遺体の血がこびりついてはいるが、その柄に描かれた龍の頭は、夜の僅かな明かりの中にもはっきりと目にすることができた。
「……どう見る」
「は、特徴から考えまして、おそらくは新選組の姓一番組伍長のものかと」
恐らく、この部下はそう思ったからこそ、この懐剣を自分の元へ運んだのだろう。彼は一つ頷くと「ご苦労だった」と部下を労った。一礼した部下が、再び夜の闇の中へ姿を消した。
それを見送り、後ろに付き従ってきた部下の一人に声をかけ、血のついた懐剣を懐紙に包んで手渡す。
「これを西郷殿のもとへ。恐らくは旧幕府軍に対し降伏の催促状でも送るのであろう。それに一緒に包んでもらえ」
「承知いたしました」
懐剣を受け取った部下が小走りに去っていく。その音を聞きながら、彼は、彼には珍しく、口元に満足げな笑みを漂わせた。
姓名の懐剣が近くにあったということは、姓名もこの辺りを通ったということだろう。どこに向かったかはわからないが、良い兆候だった。
彼は改めて部下を振り返ると、笑みを浮かべたまま、口を開いた。

「さて…それでは我々も、引き続き姓の里を目指すとしよう」


慶応四年一月四日。
夜は、まだ明けない。



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