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残散華
19

永遠とも思える夜も、いつかは明ける。
山南が襖を開けて出てきたのは、もう、東の空が蒼から橙へとその色を変え始めた頃だった。
眠ったままの千鶴を膝にのせた名を見とめて、丸い眼鏡の向こうの目が驚きに見開かれる。
「まさか……一晩ここに?」
信じられないとでも言うような口調に、名は静かに頷く。
「君たちは以前、羅刹に襲われたでしょう?お忘れですか?羅刹隊は、相当な被害を受けたとはいえ、全滅したわけではありません。ここに来るのは危険です」
「ええ、わかっています。でも、どうしても、平助のことが気になって。千鶴も同じ理由だと思うんですけど、今は寝ちゃってます」
「………」
名の目に何かを察したのか、山南は少し押し黙った。そして、ゆっくりと名の向かいに腰を下ろす。
「藤堂君のことが気になるといいましたね。ここにいるということは、彼が変若水を飲んだことは知っているのですね?」
「はい…」
「藤堂君は、本当に助からないところまで深い傷を負っていましたが、今夜で峠は超えました。恐らく、彼は生き永らえることができるでしょう。ただし、羅刹に作り変えられる過程で、藤堂君の体は拒否反応を起こしています。そんな姿を誰も見せたいとは思わないでしょう。君たちには辛いことかもしれませんが、藤堂君の容態が落ち着くまで、彼に会わせることはできません」
「……わかりました」
「君も複雑でしょうが……。どんな状況であれ、変若水を飲むと決めたのは藤堂君自身です」
それまで、淡々と藤堂の様子を説明してくれていた山南は、そこでふと、まなざしを遠くへと向けた。隠しきれない苦悩をにじませた彼は、心から藤堂のことを案じているようだった。
「重傷を負った藤堂君は、死にたくないという思いだけで変若水に手を伸ばしました。俺にはやり残したことがある気がする、とうわ言のように呟いていましたね。彼とは付き合いも長いですし、命を取り留めたことは私もうれしく思います。……ですが、その先のことまで考えていたかどうか…。彼はこの選択がもたらす結末に、悩まされることになるかもしれません」
「………」
「羅刹の吸血衝動……。人が食事をするのと同じように、羅刹も人の血を求めます。それが自然なのです。ですが…大抵の隊士はそれを受け入れることができない」
そこで山南は懐から小さな薬包紙を取り出した。小さな粒がさらさらと動く音がする。
「これは、松本先生が作ってくださった羅刹の吸血衝動を抑える薬です。ですが、これは所詮その場しのぎでしかありません。空腹を水で満たすようなものです。我々羅刹の苦しみは血を飲むまで続く……」
山南の掌で、薬包紙がクシャリと音をたてて潰れた。握りしめられた拳を山南はしばらく目を細めて睨みつけていた。
「………しかし、因果なものですね。羅刹になるのは私だけで充分、間に合っていたはずですが」
何も言うことができずにいた名は、自虐的に呟かれた言葉に、はっと山南を見た。名と目を合わせた彼は、少し、辛そうに苦笑する。
「私は全てを受け入れる覚悟で羅刹となる道を選びました。自分が変わっていくことさえ、怖いと思うことはありません。……ですが、できることなら彼らまで苦しめたくなかった」
その内に抱えた思いを吐露した彼は、しかし、暗い表情のままながらも決然と言葉を続ける。
「しかしながら、藤堂君が羅刹になった事実は変わりません。羅刹隊がほぼ壊滅状態にある現状、彼の力は大きな意味がある。私は今後、藤堂君を生きた隊士としてではなく、羅刹として扱うでしょう」
「山南さん……」
「恨んでくれて結構ですよ?これは非道な行いですから」
酷薄な笑みだった。しかし、名には彼の笑みが残忍であればある程、その奥にある苦しみが大きい気がしてならなかった。
悲しかった。ただ、無性に悲しかった。
それでも、名の顔に浮かんだのは、穏やかな笑みだった。山南は本当に羅刹隊のことを、新選組のこと思っている。羅刹となる道を選んだ者たちを彼なら正面から受け止めてくれる気がした。
山南の言葉にそっと首を振って、その目をまっすぐに見つめる。
「これから、平助が苦しむことになっても、私たちには、羅刹のことはわかりません。彼らの苦しみも、欲望も、苦悩も…。でも、平助の苦しみを、ほんの少しでも身をもって理解できるとしたら、それは先に羅刹になった山南さんだと思うんです。だから、どうか、平助のことをよろしくお願いします」
深々と頭を下げた名に、山南は呆れたように嘆息した。
「……まったく、君も変わった人ですね。この後に及んで、いまだ私を信用するとは」
「いいえ、この後に及んだからこそ、です」
名の瞳に山南は柔らかなまなざしを向けた。久しぶりの、彼らしい穏やかな微笑みだった。
「……やれやれ。まあ、君の気遣いはありがたく受け取っておきましょう」
かすかな笑い声とともにそう言った山南は、名の膝で寝息を立てる千鶴を見つめた。
「…できる限りのことはします。自分が羅刹であることを藤堂君が受け入れられるかどうか、見守っていくと約束しましょう。ですが、私ができることは、ただ彼に先輩としての助言を与えることだけです。藤堂君の本当の傷を癒すのは、その膝の方かもしれませんよ」
「………山南さん。どこからそんな情報を……?」
「何をおっしゃいます。この山南。昼間は動かぬとは言え、カミソリと言われた男ですよ?」
―そうでしたっけ……?
山南の眼鏡がキラーンと輝いたのは気のせいだろうか…。少しおどけた口調で言った彼は、名と目を合わせると、再び、その優しく穏やかな瞳で微笑んだ。
「それでは、私はこれで失礼します。峠を越えたとはいえ、藤堂君はまだまだ危険な状態ですからね。君たちももう行きなさい。羅刹の我々と違って、君たちは今が寝ている時間なのですから」
山南の言葉に、名は素直に頷く。それを見て、にっこりと笑った彼は立ちあがって出ていこうとした。しかし、襖にかけた手が何かを思い出したように、不意に止まる。

「―――あれが……あれが、君の本当の姿なのですか?」

「え……?」
「銀の髪に銀の瞳…。あれが君の。姓の力というわけですか?」
「……は、はい」
幹部の誰も尋ねなかったことを、山南が訊く。山南の表情は見えず、その背から声は流れてきていた。
「…なるほど。その姓の力は、あの風間をも上回ることができるのですね……」
「あ、あの…山南さん…?」
「いえ、ただ少しだけ気になったものですから――――では…」
そう言うと、山南は振り返ることなく、暗い部屋の向こう――羅刹の空間へと姿を消した。
パタリ……。
閉じられた襖を、名はしばらく茫然と見つめていた。彼が姓の力のことを聞いたのは自然なことだ。あれを見て、驚かず、疑問に思わない人はいない。だが、名の耳は彼の声音に歪な不安感を感じていた。それは一体何なのか。山南の考えていることなど、その時の名には知る由もなかった。





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あきゅろす。
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