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残散華


板の間で血のこびり付いた着物を脱ぎ、矯めつ眇めつ全体を観察する。真っ赤に染まった着物はもちろん返り血もあるが、明らかに内側からの出血が原因だった。
幹部たちには気づかれずに済んだだろうか。歴戦の猛者たちは、衣服の血が返り血なのか持ち主の出血によるものなのか、怪我をしているのかしていないのかくらいすぐに見極める。明らかに出血しているはずなのに、怪我ひとつ負ってないかのように動き回るところを見られては怪しまれるのも無理はない。夜で良かったと名は息をついた。
風呂の火はとっくに落ちていて、大樽の中の水も湯殿の空気もひんやりと冷たい。修行僧にでもなった気持ちで、えいやっと頭から冷水をかぶった。
「〜〜〜〜っ、冷たっっ!!」
体中がしびれる感覚に耐えながら薄く目を開けると、洗い場を流れていく赤い水が目に入る。
血に染められた水は不思議なほど鮮やかに映って見えた。
傷口があった場所に取り残された自分の血。そして、頭からかぶってしまった羅刹たちの血。
どちらも赤い、かつて体内を巡っていた血。
普段、まったくと言っていいほど返り血を浴びず、怪我もしない名は、血を洗い流すという経験があまりない。自分の体から、自分のものと、自分のものでない血が混ざり合って流れていくというのは、不思議な感覚だった。
殺した者たちを想起させ、人殺しの証拠は消されていきながらも、胸に重くのしかかった罪悪感も、刀を握る手に残る人体を断ち切る感触も、なにも流されてはいかない。
手を目の前にかざすと、文字どおり皮膚が赤く染まっているように見えた。
今までこの手を染めてきたのは新選組の敵の血だ。でも、今は違う。
斬ったのは新選組の敵ではなく、『新撰組』。同志であり、かつて自分が守ろうとした人間。
千鶴と自分が生き残るためとはいえ、その命を自らの手で断ち切ったのだ。
そして、あまつさえ山南まで殺そうとした。
沖田に言われて部屋を去ったのは、沖田の目に深い悲しみとやるせなさを見たから。そのまま部屋にいれば、沖田を斬り捨ててでも山南を殺しそうだったから。
なにより、早く、一秒でも早く、あの部屋から逃げ出したかった。無性に息苦しい、あの部屋から。
『俺らなりのけじめがあるからこそ、おまえに羅刹を斬らせたくねえんだ。俺らのためにお前が血に汚れて、そうやって苦しむ姿なんて見たくねえ』
土方の言葉を思い出して、名はふっと笑みを浮かべた。
彼は優しい。こうして、逃げ道まで用意してくれる。
でも、土方も分かっているはずだ。いずれ戦争が起これば、名は真っ先に駆り出される隊士の一人。望む望まないに関わらず、結局は血に汚れてしまうのだ、と。

こびりついていた血が少しずつ落とされていく。
流れる血が完璧に透明になったのを見届けて、名は湯殿を出た。
替えの寝巻きと一緒に羽織を持ってきたので、冷たい夜風は先ほどよりは気にならなかった。
湯釜の薪を少々と、火打石を拝借して小さな焚火を起こす。赤々と燃える火の中に血で汚れた着物を投じると、たちまち血が焦げる独特のにおいが辺りに立ち上った。
着物はどのみち着られるものでもなかったが、誰かに見せられるものでもなかった。特に、土方さんたち幹部には…。
灰になりながら徐々に形を崩していく着物を、名はぼんやり見つめる。
この着物と同じような運命にならなかったのは、姓の力を持っていて、それを使ったからだ。
寿命が縮むと分かっていても、名にさほど恐怖はない。どうやら、自分の脳も大多数の人間の脳と同じように、差し迫っていない危険に対してはそれほどの恐怖を感じない仕組みになっているらしかった。
なにより、この世界では寿命がくる前に命を落としそうである。名の知る歴史通りの流れなら、大政奉還まであと約7ヶ月。戊辰戦争の開戦、鳥羽・伏見の戦いまであと約10ヶ月。新選組隊士である名はどこで死んでもおかしくはない。
―死ぬ可能性が一番高いのは、やっぱり戊辰戦争。鳥羽・伏見か、会津か、五稜郭までいくのか…。いや、その前に油小路の変があるか。
姓の力を使うということは、命を削る、ということで、所詮は死を少し先延ばしにしたにすぎないのかもしれない。だが、自分は黙って殺されるのを待つような人間ではないことを、なにより名自身が自覚していた。
―それに、仲間が殺されるのを黙って見ているような人間でもない。
大勢は変えられないかもしれない。名は時代を動かしている人間たちの傍にいるわけではないのだ。でも、新選組の隊士たちの寿命なら、敵を斬ることで、場合によっては自分が盾になることで少しくらい延ばせるかもしれない。
近い将来、姓の力を使う時は必ずくる。鬼の血にばかり頼ってはいられないし、千鶴に血をもらうなんてとんでもない。力を自在に操られるようにする必要がありそうだった。
血にまみれてまみれて、そしていつかは…死ぬ。
―『修羅』か……。ふっ……。それでいい。
小さく笑みを浮かべた名の膝下で、いつのまにか、着物は跡形もなく灰になっていた。小さな焚火を消し、立ちあがる。
しかし、部屋に戻ろうと歩きだした名の足は、ボオッという火が燃え上がる音に止められた。
「え……?」
火は、消したはず。
呆気にとられる名の前で、火は勢いを増していく。チロチロと伸びる舌が名の足を絡め取り、視界が真っ赤に染まった。

熱くはなかった。
小さな焚火あとから立ち上った火は、今や名の全身を包み、当たり一面に広がって巨大な炎と化している。
名は唐突に、この炎が270年前、人間が姓の里に攻め込んだ時の炎であることを悟った。
左手の銀を見つめると、淡く光り輝いてるのがわかる。名の瞳と同じ、紺碧色の光だ。
真っ赤な炎の中で、銀から溢れる光も勢いを増し、やがて、世界は暗転した。





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あきゅろす。
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