残散華 16 そうして、ほとんどの隊士たちが出陣していった。 みんながいなくなった屯所は急に閑散として静まり返る。 ―静かだ。 暇になった名は、こんな時こそ羽を伸ばそうと、屯所を探索することにした。 ぶらぶらと当て所もなくさまよっていると、中庭にいきつく。そこには先客がいた。 「…沖田さん」 彼は木陰に座り込んで、ぼんやりと夏空を見上げていた。庭におりて、その隣へと向かう。腰を落ち着けると、彼の視線がやっと名をとらえた。 「なに?僕が逃げ出さないように監視にきたんなら無駄だよ。そんな予定、全然ないから」 「私も、その点は心配してません。沖田さん、あまり乗り気な感じではなかったですし…」 「…じゃあ、違う心配はしてたんだ?」 沖田は目を細めながら微笑を浮かべる。 「…体調が万全でないときに、あんまり長く外にいるのはよくないですよ?」 池田屋事件以来、彼はよく変な咳をするようになった。それは一向に収まる気配がなく、だから土方は彼を出陣させなかったのだ。 「へえ。心配してくれたんだ?ありがと。風に当たるのはほどほどにして部屋に戻るよ。…でも、体調が悪いのは君も、でしょ?」 「…そうなんですよねえ。陽射しが温かいからいいんですけど、私もほどほどにしようかな」 ぽつりと零せば、沖田の眉がわずかによせられた。 「体調が悪いのは、風間ってやつが飲ませた薬のせい?」 「んー。どうなんでしょう?…薬じゃないんですけど、なんか血?みたいでした」 それきり、沖田はふーんと考え込んでしまう。そういえば、彼もまた、風間に圧倒され、敗れたのだった。やはり悔しいのだろうか? それでも、直接そんなことをいうのは憚られる。 「怪我、早く治るといいですね」 あー。我ながら気の利かない台詞だ。少し、自己嫌悪に陥りそうになる。 そんな名を余所に沖田は自分の胸元に手をあて、小さく目を伏せた。 「刀傷じゃないしね。治るのは早いと思う。…だから、僕は大丈夫なんだけど…」 ―僕は、か。 「山南さん、ですか?」 山南の左腕は絶望的と言っていい。例の薬のことを彼がどう考えているのかはわからないが、目の前に可能性があるのに、手を出さないとは考えにくかった。 名の言葉の裏を察したのだろう、沖田がふっと苦笑をもらす。 「なに?またいろいろ嗅ぎまわってるの?」 いつもなら、ここで「斬っちゃうよ?」という台詞でも入るのだが、今の彼はただ名を見つめて微笑むだけだった。 少し照れくさくなって、一人、空を見上げる。 こうやって空を見上げたのは久しぶりかもしれない。ぽつりぽつりと散らばった雲が、涼やかな風に流れていく。 「今日の空、綺麗だよね」 ぽつりと沖田がつぶやいた。いつの間にか彼も空を見上げていたのだ。名も、静かにうなずく。 出陣していった皆は、千鶴は、今どこにいるのだろう? 空に視線をさまよわせる。 太陽は中天にさしかかろうとしていた。しかし、その光を見つめた途端、目の前に火花が散りふらっと眩暈が襲ってくる。 ―やばい…。直接見ちゃった…。 しかも、まずいことにこの一ヶ月間名がふらふらと倒れる原因になった強烈な頭痛までも襲ってくる。平衡感覚が薄れ、世界がぐるぐるとまわる。嵐の海にでも放り出された気分だ。自分でも、体が傾いでいくのがはっきりとわかった。 「くっ…」 ―ぐいっ しかし、ひんやりとした地面に倒れこむはずの体は、いつの間にか逞しい腕に抱きこまれていた。 「沖田さん…」 「ほんと、僕なんかより君のほうがずっと危なっかしいよ」 呆れるように溜め息をついた彼の体温が名の痛みを徐々に和らげていく。抵抗する力もなく、ただされるがままに彼に体重をあずけ、目を閉じた。 心臓の音が聞こえる。 血液の流れる音も。彼の息遣いも。 だが、そこに名は闇よりも深い死の陰を見出した。まだ小さいそれは、しかし異様な負をたたえている。名はハッとして顔をあげた。 「あの、沖田さん…?」 大丈夫ですか、と続けようとした言葉は彼の笑みに掻き消された。 「…ダメだよ。調子が悪いなら、大人しくしてないと」 沖田はそう言って、名を抱え込む腕にますます力をこめてきた。膝枕されるような格好になったまま、困ったように沖田を見上げる。彼はにっこりと楽しそうに笑いながら、優しい手つきで名の髪をすいた。 「髪、伸びたよね…」 「…はい、まぁ」 新選組に身を置くようになって半年以上。その間、随分髪が長くなった。長い髪をそのままにしていると女の子に見られやすいので切ろうとしたのだが、幹部たちの猛反対にあってしまい叶わなかった。いわく、「女が髪を切るなんていうんじゃねえ!」ということらしい。あまりのしつこさに思わず鍔口を切りかけたほどだ。結局、根負けした名は髪を伸ばし続けることにし、今は後ろで適当に一つくくりにまとめている。 「…でもさ、その髪型、山崎君みたいだよね」 ……。 ―そういえば、この人山崎さんと馬が合わないんだっけ…。 その後、藤堂が二人を見つけて騒ぎ出すまで沖田は名を離さなかった。彼の意外と厚い胸板に寄りかかりながら、死の陰が消えるようにと名はただ祈り続けていた―。 ―禁門の変。 長州の過激派浪士たちが御所に討ち入ったこの事件は、後にこう呼ばれる。 名の知る歴史通り、新選組の動きは後手にまわり、活躍らしい活躍はできなかった。味方同士の間で情報の伝達がうまくいかず、無駄に時間を浪費してしまったらしい。 そして、戦場ではあまりありがたくない出会いもあった。 金髪に紅い瞳の男。新選組を田舎侍とののしり、いきなり隊士を一人斬り殺したという彼の名は風間千景というそうだ。薩摩藩に所属しているらしいが、あの夜池田屋にいた目的やその正体はいまだ定かではない。天王山へと向かう土方・永倉・千鶴たちの前に立ち塞がったのは、長州侍たちの誇りを守るためだったそうだが―。 赤髪の大柄の男の名は天霧九寿。彼も薩摩藩に所属しているらしいが、やはりその目的も正体も謎のままだ。 そして、長州浪士とともに戦っていたという不知火匡という男。 日本人離れした容姿に、異様な気配と高い身体能力。彼らが薩摩藩や長州藩に所属しているというなら、いずれ戦わなければならないだろう。そして、その時は新選組の被害もただではすまない。 いずれにしても、長州の指導者たちは戦死するか、自ら腹を斬って息絶えた。しかし、逃げのびた者たちが放った火はおりしもの北風にあおられ、御所の南方を焼野原に変えてしまう。「どんどん焼け」とも呼ばれるこの大火で、祇園祭のあの美しい山鉾は大半が失われ、東本願寺や本能寺などと言った由緒ある寺院も焼失してしまった。六角獄舎では、延焼を恐れた役人たちが多くの囚人を斬首に処したが、その中にはまだ判決の定まっていなかったものもおり、あの池田屋事件の発端となった古高俊太郎も含まれていたらしい。 この後、長州は御所に発砲したことを理由に、朝廷に歯向かう逆賊として扱われ、第一次長州征伐が行われた―。 [*前へ] |