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残散華
26

宇都宮城は北端に位置する本来櫓であった晴明台が天守代用となっている。城の奥へ奥へと走るとやがてその晴明台に行きつく。櫓の麓、暗い廊下に息を顰めた名は上階から突然響き始めた予期せぬ剣撃の音に眉を顰めた。激しい力と力がぶつかっていることはその音からも微かな振動からも明らかだった。相変わらずはっきりとした気配は掴めない。しかしぼんやりとでも感じる強大な鬼の気に思いいたった瞬間、名は疲れも忘れて階段を駆け上がっていた。

――ギィイイン!
――ガキィィィッ!

二層二階の櫓の最上階で白髪金眼の鬼が刃を交えていた。一方の鬼の角は二本、他方は四本。南雲薫と風間千景―――。
「あああ!」
「ふん…」
突進してくる薫の刀を難なく受け止めると、風間は自然な体重移動とともにその刀を薫の体ごと弾き飛ばす。壁に激突した薫は一瞬えずくが、またすぐに体勢を立て直して風間に向かっていく。呆然とふたりの鬼の攻防を見守る名に最初に気づいたのは風間だった。眉をしかめ、さっと薫と距離を取って名を庇うように前に立つ。
「なぜおまえがこんなところにいる?」
「それは私の台詞」
「ち、―――南雲は最早生かしてはおけん。おまえはそこで大人しくしていろ」
小さく舌打ちをした後、有無を言わせぬ口調でそう言った風間は再び薫に刃を向ける。薫は、名と風間のやり取りにも気がついていないようだった。童子切安綱を握りしめてゼーゼーと喉を引きつらせている。
「風間待って。薫は………」
「あの刀に喰われている、であろう?」
咄嗟に袖を掴んで引き止めた名に、刃の位置は変えないまま、名の言葉を初めから知っていたかのように風間は答える。
「奴にあの刀は重すぎた。鬼の誇りを忘れ、雪村の名を汚す真似を見過ごすことはできん」
グッと足に力を込め、名の制止を振り切って風間は薫と刃を交える。夜の天空の明かりに照らされた部屋に再び剣撃の音が満ちる。
風間は薫を圧倒していた。最早刀に振り回されている薫を、しかし正確に風間を狙ってくる童子切安綱を、いとも簡単に受け止め、弾き飛ばす。しかし、壁に激突しても床に倒れても、薫は童子切安綱を離さなかった。青白い紙のような顔で金色の目だけがギラギラと濁った光を放っている。
不意に風間が構えを変えた。突きの構え。月光の先で瞬くように輝く先端を見た瞬間、名は悟る。次の一撃で、彼は薫を殺すだろう。心臓を一突き、それで終わりだ。
「待て風間!」
咄嗟に、名は薫と風間の間に割って入った。ギョッと風間が目を見開くのを視界の端で感じる。キイィンッと音がして名と風間の刀がぶつかった。直前に風間が力を緩めたおかげでそれほどの衝撃はなかったが、一拍遅れて到達した薫の刀は名の肩を僅かばかり切りつけた。「名!」と叫ぶ声を聞き流し、その刀と一緒に弾き返す。風間が動き出す前に名は童子切安綱を握る薫の手を掴んだ。手首を支点にくるりと一回転させ床に叩きつける。起き上がろうとする体を押さえつけ、禍々しい刀を奪うべく細い指に手をかけた。薫は暴れに暴れた。もはや言葉を為していない彼の指を無理矢理こじ開け、激しい抵抗が手やら頬やらを傷つけても名は諦めなかった。こんなことをしなくてもいい自覚はある。童子切安綱の刃は土方や千鶴が傷ついたように名にだって毒かもしれないのだ。今さら薫から刀を奪ったところで死人のような顔色を戻すことなどできないかもしれないというのに。
「うっ…あっ!ああああッッ!」
ずるり、と薫の手から童子切安綱が抜き取られる。薫から取り上げたそれを風間は同じく薫の腰から抜き取った鞘に収めた。妖しく揺らめく紫の炎が消え、息詰まるような空気が霧散する。ザッと初夏の風が頬を撫で、深々と吐き出した息がその清涼な空気に流されていった。

しばらく誰も、動かなかった。ただ各々の息遣いだけが小さな部屋に満ちていた。
「………はな、せよ…姓…」
不意の声が静寂を破る。ゆっくり視線を上げると憑き物がとれたような顔をした、けれどげっそりとやつれたままの薫が虚空を見上げていた。じっとその様子を見つめ、押さえつけていた手首を離す。のしかかっていた体も起こし、代わりに薫の細い体を抱き上げた。軽かった。その顔色と同じ紙のように。
「かおる………」
ゆっくりと、一文字一文字刻みつけるようにその名を呼ぶ。ぼう…と視線を動かさなかった薫の目がそこでやっと名に焦点を結んだ。
「私は…あなたを許しはしない。沖田さんを傷つけ騙したことも姓の情報を売ったことも土方さんや千鶴を傷つけたことも………。…でも、あなたが南雲家で過ごした日々だけは気がかりだった」
「………。」
薫は何も言わずに名を見上げていた。力なく投げ出された手には何も握られていない。その手が何かをすることももうない。
「………今さら言っても遅いよ………そんなこと…」
長い沈黙の後、ぽつりと薫は呟く。静かな声だった。そうかもね。と名も返した。
「でも、せめて死ぬ前のあなたに………狂ってはいないあなたに伝えたかった」
「―――あなたには…すまないことをした」
薫は、またじっと名を見上げた。それから何も言わずに天井に目を戻した。
「あの刀は…結局おまえには効かなかったな」
「…?」
不意をつかれ、名は押し黙る。薫の言葉の意味に思いいたり、先程ついたはずの頬の傷に手をやり、つるり、とした触感に目を見張った。その手で肩に触れると、その場所の傷ももう塞がっていた。
「…あれは鬼を斬る刀だよ。千鶴を傷つけた。もちろん俺だって無事じゃないさ。―――とうとう俺は何もできないままだ。千鶴の願いも叶えられずおまえも殺せず………もう…疲れた……」
「………。」
眠いと呟いて薫は目を閉じた。力無く投げ出された体からはもうほんの僅かにしか鬼の気配を感じることができない。それさえも風に攫われる砂のように薄くなっていく。



『薫……』

沈みゆく意識の中で、薫は最後に聞いた千鶴の声を思った。愛しい、愛しい妹。
千鶴は、誰からも愛される子だった。両親でさえ、同じ日に生まれたのに、薫よりも千鶴を愛した。今から思えば、それは贔屓というよりも、千鶴が手のかかる子だったから、という方が正確だろう。何より千鶴は貴重な女鬼だ。大切に守られる存在だ。けれど、そんなことを頭でだけでも理解できるほど大人ではなかった薫は里の鬼たちが千鶴ばかり可愛がるのが不思議で仕方なかった。どうして、と何度思ったかしれない。それでも、言いようのない気持ちに襲われても、千鶴を恨んだことはなかった。すぐに転んで、すぐに泣いて、ひとたび笑えば誰より可愛らしい妹。守ってあげたい、傍についていなければ、と思わされた。あの、世界が赤く染まった日さえ燃え盛る家の中で薫はずっと千鶴を案じていた。
どうして俺には何の助けも来ないのだろう。どうして父と母は必死な顔で千鶴を抱えて俺の前から消えてしまったのだろう。なぜみんな千鶴ばかりを………。―――そんなありふれた問いに気づかないふりをしながら―――。
燻っていた疑念が歪み始めたのは、南雲家に連れてきてこられてからだと理解している。胸の奥に巣食っていた答えのない問い。だから、土佐の忍びから『新選組に素性不明の者が二人。風間家の頭領が接触を図っていた様子』と聞いた時、すぐさま上京を決めた。幼いころからの問いにどういう答えが欲しかったのか。そんなことは、今となってはもうわからない。憶えていないということはきっと曖昧なものだったんだろうと想像がつくだけだ。ただひたすらに、薫は胸を痛くしながら邂逅の時を待ち侘びた。
結局、千鶴は兄の事など雀の涙ほども覚えていなかった。薫と同じ顔で、はっきりと千鶴だとわかる顔で、千鶴が泣くから一緒に泣いてしまった薫を不思議そうに見上げたあの幼い時のように、千鶴はきょとん、と自分と同じ顔を見上げた。
ほっとしたようながっかりしたような、少々複雑な気持ちに覆われながらも、その時は特に明確な感情を抱くこともなくその場を後にした。素性不明の二人のうち、一人は『修羅』と呼ばれる凄腕の剣士で千鶴とは似ても似つかぬ容姿であったし、もう一人はほぼ軟禁状態だと聞いていたから、可愛い妹は男所帯で冷遇されているのだと、当然だ、生に翻弄されるのが価値ある血を持つ女鬼の定めなのだからと、そう今までが嘘のように穏やかな気持ちになったものだ。妹が俺のことを忘れているのなら、血の記憶はどこかに流して、南雲家という居場所に目を向けるのも悪くない、そういう選択肢だってある。
その時の自分は迂闊だった。千鶴の調べも大雑把だったし、なにより『修羅』のことなんて気にも留めなかった。
真実を知ったとき、薫は怒りに体が震えた。
ふざけるなふざけるなふざけるなよ姓ッッ!!
なぜお前が千鶴を守るんだ!?なぜ千鶴を守るのは俺じゃないんだ!?
俺たちを滅ぼした人間に愛されて、俺を虐げた姓の当主に愛されて、大切に大切に守られて―――!
憎かった。
千鶴を愛す姓が憎かった。
姓に愛される千鶴が憎かった。
俺を忘れて、全てから愛され守られて、そうやって幸せそうに笑っている千鶴という存在が憎かった。
光の射さない暗い部屋。血の飛び散った薄い布団。吐き気を催すほどの嘲笑と、筆舌には尽くしがたい暴力の臭いが、幼い己のすべてだった。地獄だった。それこそ、両親に愛された記憶さえ嘘偽りだったかのように歪むくらいには。
あの地獄の中でどうして俺は生きていたのだろう?斬られても斬られてもすぐに傷が塞がってしまうから?いや、違う。千鶴がそう願ったからだ。俺があいつの傍にいてやらなければならないからだ。
しかし。ああ…可愛い妹は何も憶えてはいない。それならば俺の存在意義はなんだ?そもそも俺に存在意義などあったのか?
あの可愛らしい笑みがどうしようもなく怨めしかった。あの無邪気な瞳が憎しみに歪む瞬間を見たいと思った。
どろりとした真っ黒な憎悪と怨嗟に覆い尽くされて、八つ当たりを受けて死んだ土佐藩士の血の海の中で、薫は独り誓った。
千鶴を苦しめてやる。苦しめて苦しめてそして俺の傍に引き戻してやる……!


わかっていた。
両親を目の前で殺されたのだ。過去のこと全て、丸ごと抜け落ちていてもおかしくない。薫を覚えていないのも仕方ない。
わかっている。わかっていても、もう止められなかった。もう、どうしようもないほど苦しいのに、千鶴が憎くて憎くて。
こんなに、愛しているのに――――。

裂けた着物の隙間。白い腕から迸った鮮血が瞼の裏を離れない。あんな傷を負って、あの子は大丈夫なのだろうか………。

愛していた。本当に、愛していた――――………。



櫓に吹きこんでいた風が不意に止んで、時が止まったような静寂が訪れた。
―――そうして薫は眠りについた。長い長い眠りだった。



その体はその身を喰らった刀とともに宇都宮城を見下ろす山の上に眠っている。彼の体は人目にふれないよう風間によって運ばれ、彼と戦った人々に見守られて土の中へと消えた。ただひとりの肉親を失った千鶴は誰も責めず何も言わず、痛む腕で痩せこけた体を抱きしめた。
春の終わりの、静かな別れだった。その別れに影のように寄り添った風間に誰より驚いたのは名だったが、その風間は幹部たちとしばらく言葉を交わした後、夜の闇に溶け込むようにして去っていった。



慶応四年四月十九日、第一次宇都宮城攻防戦は旧幕府軍の勝利に終わった。しかしその四日後の二十三日、伊地知正治や河田佐久馬、大山弥助率いる新政府の救援軍によって城は再び新政府軍の手に落ちる。早朝から夕方近くまで続いた戦闘は苛烈を極め一進一退の攻防が続いた。しかし午後になり結城での戦いを納めた伊地知正治や壬生城を発した土佐藩兵が城南東から攻め寄せると戦況は急転。最新の火器を惜しみなく投入した新政府軍に、旧幕府軍の被害は徐々に拡大していった。激しい戦闘で出火した火は瞬く間に燃え広がり、その炎に追われるように旧幕府軍は日光方面に敗走した。その日、宇都宮城の火炎は夜通し燃え続けたという。この火災で関東七名城と称えられた宇都宮城は焼失し、後世宇都宮城の戦いとよばれる戦闘は幕を閉じた。宇都宮は新政府の勢力下に入り、旧幕府軍は再び会津を目指すことになった―――。




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