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残散華
25

城の中は思ったよりも静かだった。ここは任せろ。おまえは早く行け。という原田と永倉の声に背中を押されるようにして本丸御殿の廊下を走る。閉め切られた豪奢な襖を開いても開いても羅刹の姿も薫の姿もなかった。
―おかしい。確かにこの中にいるはずなのに。
力を解放した大量の羅刹たちの気配で城は噎せ返るような香りがした。その中でも、薫の気は異質だ。羅刹の気配に紛れようとするそれを必死に手繰り寄せようとした時、突然ドーン!という音とともに目の前の襖が吹きとんだ。金泥を塗った牡丹の障壁画の上で男が一人絶命している。見覚えのある顔だった。長州の、あの不知火と言い争っていた羅刹だった。
「ねえ出てきなよ。いるんでしょ」
男にしては少し高めの声が何でもないような気軽さで名を呼ぶ。暗い廊下でそこだけぽっかりと開いた空間から煌々と明かりが漏れていた。
部屋の中にはほとんど物がない。四方の灯が金泥の障壁画に反射して不思議な明るさで部屋を満たしていた。奥に薫が立っている。そしてその横に―――、
「、千鶴!!」
薄紅梅の着物を纏った少女がぐったりと床に横たわっていた。長い黒髪が畳の上に散らばり名の声にもぴくりとも動かない。
「久しぶりだね、姓。千鶴を取り返した途端やってくるなんて随分カンがいいじゃないか」
「………千鶴に何をしたの」
銀に手をかけた名の低い声にも動じた様子はなく、薫は口元に歪な笑みを浮かべた。
「そう睨むなよ。責めるべきはそこの男だよ。丁重に扱えって言ったのに千鶴を慰みものにでもするのかなんて殺しても殺し足りない…!」
きざまれた隈の上でぎらぎらとした目が紅に殺気だつ。その凄絶な目をギッと名に向けて薫は右手の太刀を構えた。恐ろしく整った流線を描く刀身から紫の気がゆらりと立ち昇る。
「おまえもまた僕から千鶴を奪おうとするのかい?昔俺を千鶴から引き離したように…ッ!」
「―!」
ガキィ!と鋼鉄と鋼鉄がぶつかりあう音が響く。目にも止まらぬ早さで眼前に迫った刀を名はすんでのところで受け止めた。
―、重いっ…!
薫の剣は今までと明らかに違った。格段に早く、そして重い。
―刀が違う…?そのせいなのか?
美しいのに禍々しい紫の気をちらりと見下ろす。妖刀だ。それもかなり強い。
「気をつけた方がいいよ。これ、鬼を斬る刀だから」
名の思考を読んだように視界の端でにやりと薫が笑う。その視線が指す先に絶命して横たわる羅刹を見つめ、名はザッと心臓が冷たくなった。
―まさか。いや、でもあの羅刹…。内臓を斬られてなかった?
本来羅刹は内臓を抉られたところで死にはしない。首か心臓でなければその傷は一瞬にして塞がるのだ。だが、あの羅刹は………。
「童子切安綱。源頼光が酒呑童子の首を落とした刀さ」
「………」
「ふ、まあ僕も半信半疑だったんだけどね。どうやら羅刹には有効みたいだ。さて、姓はどうなのかなぁ?」
「チ、―――」
薫の刀が更に重みを増した。その細く小柄な体からは考えられないような力を受け流し、鎬を削っていた刀を解いて距離を取る。生半可な攻めではこちらが消耗すると名は直感的に悟っていた。今の薫は、段違いに強い―――。
ザッと室内に風が吹き荒れ、名の髪が銀に染まってゆく。ほとんど同時に、薫の髪が透き通るような白に変わり、暗い胡桃色の瞳が爛々とした輝きを放ち始める。額に生えた真っ白な角は太く長い。銀と金の双眸が睨み合ったのは一瞬だった。次の瞬間、激しい音を立ててふたりの鬼の刃がぶつかった。



龍神の眷属となった姓の鬼と、東の鬼の頭領雪村家の嫡男。そして、銀と童子切安綱。
力と力がぶつかり合い、火花を散らすそこで千鶴が目覚めたのは、名と薫が何度目になるかわからない刃を交えた時だった。ギインンッ!という激しい音とともに衝撃波が襖を揺らす。次の瞬間部屋に響いた悲鳴のような声に、ギリギリと鍔迫り合っていた刀はぴたりと動きを止めた。
「名ちゃん!薫!」
薫の意識が一瞬逸れた。キンッと甲高い音を立てて名は後方に下がる。ハッと意識を戻し刀を構え直した薫に、しかし名が攻撃を仕掛けることはなかった。
「名ちゃん待って!」
「待つよ」
薫と相対しながら名はスッと髪の色を元に戻す。そしてもう用は済んだとばかりに銀を仕舞った。
「……何のつもりだ、姓」
「別に」
「薫待って、話があるの」
「―って、いうことみたいだから」
「………。」
薫は押し黙った。そのマントの裾を千鶴の小さな手が掴んでいた。
「薫お願い。話を聞いて。もうこんなことは―――」
「千鶴…。悪いけどそういう話なら聞けないよ」
「薫!でも、人間を滅ぼして鬼の世を作ろうなんて、そんなの間違ってる。お願い、考え直し―――」
「千鶴ッ!!」
ありったけの力で叩きつけられた叫びは千鶴の言葉を止めるには十分だった。怯えたように兄を見上げる妹に、薫はわななく唇で詰め寄った。
「おまえは…いつからそんなに人間に肩入れするようになった?人間が憎くはないのか?父さんと母さんを殺した人間が憎くはないのか?俺は憎い!憎くて憎くて堪らない!」
薫の唇は血の気を失い、目の下には深い隈が刻まれている。薫の怒りに呼応するように紫の妖気が揺れ、ちろちろと腕を這い上っていく。やがて吸い込まれるように消えてしまった禍々しい紫色を見とめて、名はうっすらと目を眇めた。
―あの刀、まさか………。
「お願いだ、千鶴。俺と一緒に行こう。何も聞かなくていいから。何も言わずに俺についてくるんだ」
薫の声が懇願の響きを帯びる。しかし千鶴は首を縦に振ろうとはしなかった。
「…行きません。……決めたんです。新選組で生きるって。――お願い薫、復讐なんてやめて。そんなことしても、また悲しむ人が出るだけ――」
「そんなこと?なら、泣き寝入りをした鬼の一族が繁栄したか?雪村家の末路はどうだ?そこの姓の家だって!人間がいる限り鬼に平和は訪れない。ずっとだ!それがなぜわからない!?」
また、紫の炎が揺れる。その色がじわりと薫の影に染み込んでいくのを見つめながら、名はふと、部屋の外の空気が変わったことに気づいた。相変わらず城の中の気配は滅茶苦茶だ。薫の強烈な気のせいで感覚も麻痺してしまっている。だから、反応が僅かに遅れた。
「―――もういいだろう、おまえたち。そろそろいい時間だ。そこの姓を殺せ」
「っ――!」
「名ちゃん!」
バッと襖が開くと同時に大量の羅刹が流れ込んでくる。またたく間に千鶴との間が隔たれその姿が僅かに見えるだけになる。
「薫何を…!」
「おまえが来ないというなら姓の利用価値ももうないよ。おまえも……いつか裏切られ悲しむことになる。おまえを幸せにできるのは俺だけだ、千鶴。―――俺を選べないというのならここで終わりにしよう。他の誰かに渡るくらいなら、…なら…いっそ俺の手で―――」
「ッ!千鶴逃げて!」
紫に彩られた刀が高く掲げられる。吹き出した姓の力が一刀のもとに羅刹を斬り捨てた。しかし、身動き一つできないまま薫を見つめる千鶴には、どうやっても届かない。
「千鶴ッ!!」

スッ――と奇妙な静寂が落ちた。薫の刀が止まった。その首に銀の切先が突きつけられていた。
「土方、さん…」
「…てめえか、南雲薫っていうふざけた野郎は」
呆然と呟く千鶴と土方の低い声。その次の瞬間一気に時が動きだした。薫と土方が刃をぶつけ、取り囲む羅刹を名が斬り倒す。羅刹の壁の反対側にも原田、永倉の姿が現れた。
「よっしゃやっと追いついたぜ」
「名ちゃん千鶴ちゃん大丈夫かぁ?」
羅刹たちと斬り結びながらもその声は明るい。おそらく、城の外や入口付近の羅刹は粗方片付けたのだろう。二人の姿を見とめて薫がチッと舌打ちをする。
「この、役立たずがッ!」
ガキィッ!と一層激しい力で童子切安綱が振るわれる。それを受け止めた土方の眉が一瞬寄ったのを、薫は見逃さなかった。
「―――ああそうか、おまえは確か“旧型”の羅刹だったな……」
ギッと薫の刀が重さを増す。小さく毒づいた土方は一瞬にして羅刹の力を解放するとありったけの力で薫を弾きとばした。小さな体が空中でくるりと一回転し、黒いマントが翻る。漆黒の影は次の瞬間土方の真横を駆け抜けながらその脇腹を深々と斬りつけていた。
「ぐっ……!」
「土方さん!」
呻いた土方はすぐに体勢を立て直そうとするが敵わない。溢れ続ける血に信じられないというようにその目が見開かれる。
「アハッ!アハハハハ!」
喉を反らして薫は高笑いしていた。右手に握られ妖剣からぼたぼたと血が零れて畳に染みを作る。
「傑作だよ!新選組の鬼の副長がこのザマだ!すごい!本当にすごい!この童子切安綱があればもう誰も俺には敵わない!」
ゆらりと揺れた刀身が再び土方に振りかざされる。名は思わず舌打ちをした。原田も永倉も、もちろん汀も、朝から戦闘を続けてきた者たちは皆満身創痍だった。斬っても斬っても目の前から羅刹は消えてくれない。土方に振りかざされる刀を視界の先でとらえることしかできない。
「土方さん!」
ありったけの力で名は叫んだ。彼がこんなところで死ぬはずがないと、こんなところで死んでいいはずがないと叫んでいた。
―!
その時、不意に名は気づいた。千鶴の手にいつの間にか握られていた刀に。彼女が腰に差していたものより一回り大きい使い古されたその太刀に。
「やめてえええ!」
紫の妖剣を受け止めたのは土方の刀でもその体そのものでもなく、千鶴が握りしめた鞘に収められたままの大通連だった。千鶴の小通連と対になるように置かれていたその太刀の鞘を童子切安綱はあっさりと通り越し、しかし雪村家代々の名刀の刀身は激しい衝突にも持ち堪えた。
「―――何をしているんだ…千鶴……」
「…やめてください、薫……もうこれ以上新選組のみんなを傷つけないで!」
「そこをどけ千鶴!その男は俺が殺す!」
「いやです!」
「どけと言っているッ!!」
ガキィッ!と音がして千鶴の手から大通連が弾け飛ぶ。童子切安綱の勢いはそこで止まらず、千鶴の二の腕から鮮血が吹き出した。
「ーーーっ!」
声にならない悲鳴が小さな唇から漏れる。腕を押さえて崩れ落ちた千鶴に、薫の顔が血の気を失った。
「……ぅ…あ………」
言葉もないまま、ただ唇を震わせて後ずさる。額に玉のような汗を浮かべながら、それでも千鶴は落ち窪んだ両目を見つめて弱々しく微笑んだ。
「私は…大丈夫……もう、やめよう?刀を捨てて……本当はつらいんでしょう……?だって、すごく顔色が悪いもの……」
濁った金眼が見開かれ、そして歪む。しかし、薫…と健気な声に名前を呼ばれた瞬間、その体は弾かれたように城の奥へと走り出した。
「薫っ!!」
「おい待て!」
呼び止める必死の声にも彼は止まらない。羅刹の壁を突破し最初に薫を追ったのは名だった。一旦土方の前に膝をつきその傷の状態を確かめる。「さっさと行け…!」と名を促す言葉に一つ頷き、後ろ髪を引かれるようにしながらも城の奥へと消えていった。
「土方さん!千鶴ちゃん!大丈夫か?!」
ようよう羅刹を斬り伏せた永倉が心配そうに駆け寄ってくる。原田も最後の一人を屠り後に続いた。
「だい…じょうぶ、です……」
「大したことねえよ…ちょっとしくじっただけだ…」
千鶴の顔は最早真っ白だ。土方も、強がりを吐きながらその声に力はない。脇腹を押さえる手の隙間からは未だ血が滲み出していた。
「しかしどうなってんだ、あの刀。羅刹の治癒力が効かないなんて……」
「くそ、血が止まんねえ。まずは止血しねえと……」
「……………」
止血を施されながらも、千鶴は思いつめたような顔で名と薫が消えた方角を見つめている。かおる。と音もなく呟いた体がぐらりと傾いだ。
「おいっ!」
「千鶴ちゃん!」
原田の腕に倒れこんだ小さな体はぐったりと動かない。固く閉ざされた瞼からつぅ…と流れ落ちた涙に誰もが声を失った。豪奢な部屋には蝋燭の芯が燃え尽きていく音が響くだけだ。耳を澄ましてもふたりの行方を知らせる音は何一つ聞こえなかった。重苦しい空気を払うように原田が首を振る。
「―――名を、信じるしかねえ。ひとまず治療だ。まだ羅刹がいるかもわからねえから、他の奴らが来たらすぐにでも名を追おう」
「そうだな、大鳥さんたちももう来るはずだ…」
千鶴はもちろん、土方もとても動ける状態ではなかった。苦しげな息を吐きだした土方の未だ消えない隈を見ながら、原田は先ほどの薫を思いだす。深い隈ができて頬がこけて、ずいぶんひどい人相だった。いや、鬼相か。あれではまるで廃人か死人だ。どこか濁った金眼に宿る狂気を思い出して、原田はぞっと背筋を震わせた。

―…無事でいてくれよ…名……


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あきゅろす。
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