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約の翼
吟詠公爵
 不機嫌の塊、そんな雰囲気を漂わせていたパイモンはベリアルの城の絨毯を遠慮なく踏み付ける。どうせ腐った絨毯だ。いくら踏みつけてもいいだろう。どうせベリアルは何も言わないのだから。
 すると何を思ったのか、パイモンは手綱を引き、ラクダを止めた。

「ゴモリー」

 彼女の薔薇色の唇が微かに動いた。呟いたのは何者かの名だろうか。
 瞬間、“そこ”はベリアルの城ではなかった。闇だけが支配している空間には彼女と、そしてもう一人、若い女性がいた。

「お呼びでしょうか?」

 鈴を転がしたような声の主は二十歳前後。パイモンが艶やかな薔薇なら彼女は白百合だろうか。 美しい青み掛かったマラカイトグリーンの瞳に、しっとりとした長い濡れ葉色の髪は肩や背中を流れている。
 白いレースが縫い付けられた紺を基調とする異国情緒溢れる礼服を身に纏い、羽と房飾りがついた帽子を被り、宝冠を腰に結んでいる。
 その顔立ちは正に名のある芸術家が心血を注いで作った女神像のように美しい。そして彼女もまたパイモンと同じように大きなラクダに跨っていた。

「ベリアルの監視は任せましたよ」

「仰せのままに」

 頭を垂れた彼女はただの悪魔ではない。
 名をゴモリー。吟詠公爵の名で呼ばれ、二十六の軍団を従えし偉大なる大公爵なのだ。その美しさと洗練された優雅な振る舞いからルシファーの寵妃であるとも言われているが、彼女は笑って否定している。
 ゴモリー曰く、ルシファー様はとても一途な方です。私(わたくし)なんて眼中にないですから、だそうだ。

 彼女はパイモンやルシファーの側近であるベルゼブルやアモンのように『全て』を知っている訳ではない。
 しかし聡明で過去・現在・未来を見通す力を持つ彼女は、全てを知って主のために知らぬ振りを続けているのかもしれない。

「ですが危険だと感じたら直ぐにお止めなさい。いいですね?」

「承知しております。それより、パイモン様にはそんな不機嫌そうなお顔は似合いませんわ。笑ってくださりません?」

 ふんわりと微笑む彼女に毒気を抜かれたのか、パイモンは困ったように微笑んだ。本当に彼女は昔から変わらない。
 何もかもがあの頃とは違ったしまったというのに。目の前にある存在だけは時が止まったままのよう。

「貴女は変わらない。昔がとても懐かしく思えますよ」

 主天使であった自分、熾天使であったベルゼブルに最も美しき天使であり、天使長をつとめていた暁の御子、ルシファー。ルシファーに絶対の忠誠を誓っていたアモン。
 ゴモリーは今と変わらない美しき月の女神だった。
 今はもう戻らないものだからこそ、こんなに懐かしいと思うのだろうか。

「そう、ですね。あの頃が懐かしい。既に捨てたものであるからこそ余計に……それでは何かありましたらまた連絡致します」

 言うなりゴモリーの姿は掻き消える。
 次の瞬間、パイモンは何事もなかったかのように城の中を歩いていた。麗しい公爵の姿もなければ闇もない。『炎の王』ベリアルの宮殿だ。
 しかしパイモンの表情は先ほどのように絵に書いたような不機嫌な顔ではない。穏やかな微笑を湛えたものだった。



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あきゅろす。
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