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約の翼
女神に仇なす者
「まだだ……まだ早い。この体、もって貰わなければ困る」

 法都シェイアード。往来の激しい街中で、男は荒くなっていた息を整え呟いた。
 だが街行く人、誰もが彼に注意をはらうことはない。まるでそこに誰もいないかのような奇妙な光景だった。
 年の頃は二十代後半か三十代前後の男である。銀色の髪に珍しい紺と紫のオッドアイ。

 恐ろしく整った美貌ではあるが、見る者に冷たさを感じさせる、そんな顔立ちである。
 とその時、唐突に男の前に何者かが現われた。まだ年若い青年である。

 胴衣もズボンも黒と言う簡素な装いであったが、彼の美しさを隠すには不十分だった。
 一見すれば天使も霞むほどに美しい。すっと通った鼻筋に真珠のように滑らかな肌。風になびく髪は綺麗な紫色でアーモンド型の瞳は紫水晶のように鮮やかだ。

『楽しかったよ。聖人と遊べてね』

「そうか。感付かれてはいないな?」

 青年の薔薇の蕾を思わせる紅い唇から紡ぎ出された声もまた、心地よい響きである。
 だが目の覚めるような美しさを持つ青年を前にしても男は表情を崩さなかった。
 それは問いと言うより確認に近いもの。青年を信頼しているのか、それとも何か別の理由があるのか、短い会話から男の真意を窺い知ることは出来なかった。

『ボクが大悪魔アスタロトであるとはね。でもこの件に悪魔が関わっていることくらい、教戒の人間は気付いているよ』

 自らを大悪魔、魔界の公爵アスタロトと名乗った彼の背中には六枚の翼があった。
 だが女神に仕える白ではない、黒だ。黒は天より堕とされた証であり、六枚の翼は彼が天使であった頃、高位であった名残である。
 それに高位の悪魔はこの世ならざる美貌を持つという。その点では間違いなくこの青年は位の高い悪魔なのだろう。

「十分だ。それで構わない。それとフィリルが捕まったらしい」

『フィリル? 誰それ? それよりさ、ボクの役目、ちゃんとあるんだろうね?』

 男の言葉に青年、いやアスタロトは不思議そうに首を傾げた。
 取るに足らない人間の存在などいちいち覚えてもいないと言うことか。彼ら悪魔にとって人間などちっぽけで弱いだけの存在だからか。

「呪力結界を張る時の手伝いならな。どうも力を使うのは苦手だ」

『分かった。まったく、ボクがいないと駄目なんだから』

 そう言ってアスタロトは笑った。無邪気に、そして妖艶に。男はそこで初めて苦笑する。
 それも一瞬のことで、直ぐに冷たい美貌に戻る。
 二人は雑踏に紛れるようにして消えて行く。最後まで彼らの会話を耳にした者はいなかった。



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