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約の翼
黒き翼、背負う者
 シグフェルズがバクルスを突きつけた先にいたのは三十代前半ほどの女だった。何の変哲もない普通の恰好をした黒髪の女性。
 だが見る者を惑わせるような紫水晶の瞳だけが妖しい光を宿している。女は銀の杖を向けられてもなお、平然としていた。それどころか血のように紅い唇を歪め、薄笑いを浮かべている始末だ。

「人であって人ではない。『中』にいるお前は誰?」

 消えたはずのノルンが女の背後にいた。手にはシグフェルズと同様にバクルスが握られている。
 ノルンの言葉に女は声を上げて笑った。心底面白そうに、或いは何かを楽しむように。

「へぇ、最小限に抑えたボクの力を感知するなんて君、普通の人間じゃないね。光に愛された者、聖人か」

 そう言って女は笑った。声は確かに女のものだったが、口調はまるで若い青年のようだ。明らかに食い違う口調と容姿にシグフェルズが困惑する。
 ノルンとシグフェルズ、二人にバクルスを突きつけられようとも女は、笑みを絶やすことはない。顔は未だ不気味とも思えるほど、蠱惑的な笑みに彩られたまま。

「私のことはどうでもいい。何者だと聞いている」

 こうしてただ立っているだけで肌が泡立つ感じがする。目の前の人間は武器さえ持っていないと言うのに、この背筋を駆け上がるような悪寒は何だ。
 そしてそれはノルンだけが感じている訳ではない。バクルスを構えたままのシグフェルズも言い表せない何かを感じていた。

「ボクはボク、ただの悪魔さ。じゃあ、試してみる?」

 ノルンはバクルスを握る力を強める。馬鹿な、ここまで力の底が見えない悪魔がただの悪魔であるはずがない。沈黙を保つノルンに女は嗤った。
 瞬間、女が一瞬で掻き消える。驚くノルンの背中に強い衝撃が走った。
 突き飛ばされたとかそんな次元ではない。咄嗟に足に力を入れたが踏み止まれない。吹き飛ばされる。

「ノルン!」

 壁に叩き付けられる寸での所でシグフェルズの腕の中に包まれていた。
 だがノルンを庇ったシグフェルズが背中から壁に叩き付けられる。かなりの衝撃だ。少年は膝を付いたまま立ち上がれない。

「シグ!」

「ふうん、でも聖人の力はそんなもんじゃないでしょ」

 今や女の背からは悪魔、いや、堕ちた天使の証である黒き翼が生えていた。ノルンは自分の代わりにまともに衝撃を受けたシグフェルズを持たれさせて立ち上がる。



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